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2009年2月号 No.426  2009.2.21

神殿の境内で
加藤 豊 神父
新委員長竹内です。よろしくお願いします。 竹内 秀弥
任期を終えて 吉田 雨衣夫
チースリク神父様のこと 佐倉 リン子

神殿の境内で

                            加藤 豊 神父

 神殿の境内で、わたしはいまこの巻頭言を書いています。ここでいう「神殿」とはなんでしょうか。それはわたしたちのことです。誤解のないようはじめにお話ししておくべきでしょう。「聖堂」が「神殿」なのではありません。「聖堂」と「神殿」とでは、まったく違うものです。だからわたしはなにも「聖堂」の脇にある司祭館でこの巻頭言を書いている、と、みなさんにいいたいわけではありません。
 わたしはいま、多摩教会という共同体の成員として、また、みなさんがそうであるように、日本のカトリック教会の一員として、あるいは全世界のカトリック信者をはじめ全キリスト者のなかの小さな一人として、そしてその信仰をこれまで人種や民族の別なく伝えてきてくれた今は亡き数限りない名も無き人々の後裔として、この巻頭言を書いている、といいたいのです。そう、ここでいう「神殿」とは、わたしたちキリスト者をイメージした言葉です。
 わたしたちにとって、いま大切なことは、こうした「イメージ」で言い表される教会用語の内容を妥当に把握することであろうと思います。用語が単に暗号に過ぎなければ、その言葉も信号に過ぎませんが、「イメージ」には豊富な内容が伴うからです。
 多摩教会は本当に大きな教会になりました。それはあたかも太古の昔「荒れ野」を旅したイスラエルの民が「約束の地」に到着するまでの旅の途中で数を増していった様子と確かによく似ています。実際これまで多摩教会は「荒れ野を旅する」という通称で呼ばれてきました。出発時は土地建物もなく、現在わたしたちが目にしている「聖堂」もありませんでした。東と西とを行ったり来たりするなかで「幕屋の礼拝」のようにミサを捧げてきたのです。しかし、わたしたちは古代イスラエルを模倣再現していたわけではありません。同じ用語を使っていても「旧約」のそれと「新約」のそれとでは内容が異なります。新約的な意味での「旅する」というのは多摩市周辺を巡る東西往復を最初から意味していなかったばかりか、わたしたちはまだ新約的な意味での「約束の地」に到着してはいないのです。もし、到着しているとすれば、わたしたちは新約の民(キリスト者)ではなくて、旧約の民のリメイク版であることになってしまい、ここ「聖が丘」が「地上のエルサレム」と同義語となってしまいます。
 実は「新約」でいわれているキリスト者とは、未来に向かう時間的なイメージであり、その果てにある「約束の地」とは、やがて到来する「神の国」のイメージです。それはまた一人一人の生涯に置き換えるならば来世をも意味し、そういう一人一人こそが「荒れ野」という「実人生」の旅人である、おいうことなのです。いまのわたしたちは、こうした「イメージ」で言い表される教会用語の内容を妥当に把握するために、共同体発足の原点を探り、その「精神」を深<見つめ直して将来に繋げる使命を負っていると思います。
 ユダヤ教がそっくりそのままキリスト教になったのではありません。従ってどんなにイメージの重複があろうとも、その中身は随分違います。「割礼」と「洗礼」とは違うはずです。「バルミツバ」と「堅信式」とは違うはずです。「罰を恐れて掟を守ること」と「罪がゆるされた喜びに生きること」とは違うはずです。各地で祝われる「献堂式」と、かつて地上のエルサレムで祝われた「神殿奉献祭」とは違うはずです。
 しかし、悲しいかな人間には「神の慈しみの眼差し」には疎く、裁くに早い現実があると思います。新約の信仰が「旧約化」していく要素をキリスト者自身が抱えてしまうことだって充分にある、といえるのです。多摩教会が「地上のエルサレム」となってしまうのか、神の国へと向かう旅(愛と平和を求める旅路)がこれからも続くのかは、みなさんにかかっているのです。
「パレスティナ紛争」のことはご存知でしょう。「地上のエルサレム」が現在どういう状態であるのかは、みなさんもご存知でしょう。あれは「とき」よりも「場所」(執着)が優先され、「実人生」(実生活)よりも「イデオロギー」(べき論)が優先されてしまったことに端を発しているのではないでしょうか。
 もとより教会とは「場所」ではなく「人間」であり、その集まり(共同体)が「心を込めて神を仰ぎ、賛美と感謝を奉げる」とき、共同体は「みずからの神殿性」によって力を得るのです。その「とき」に重要な「空間」となるのが「聖堂」です。新約の民であるわたしたちは、互いに「平和の挨拶」を変わすために建てられた「聖堂」を「地上のエルサレムの神殿」にしてはならないのです。「地上のエルサレム」は旧約の民の神殿であり、そのためにどれほどの血が流されていることでしょう。
 ところで、新約的な意味での「神殿」という用語のイメージは何かというと、それは上述のとおり、わたしたちを含むすべてのキリスト者のことです。その「神殿の境内で」、わたしはこの巻頭言を書いている、といいたいのです。いまこの「神殿の境内」にはカトリックだけでも11億人くらいの人がいます。「わたしが神殿の一部だなんて恐れ多いことだ。罪深いわたしがそんなに立派な信者であるのか」と自分に問いかけても他人と比べてみても意味がありません。そもそもイメージが妥当に把握できていないとしたら、それはとても滑稽な自問自答となるでしょう。
 新約の神殿の境内で、わたしはいまこの巻頭言を書いています。それは「聖堂の脇にある司祭館で書いている」という意味ではありません。「聖堂」とはもともと新約的な用語であって、既にキリスト者たちに体験されている概念ですから、わざわざイメージで語られたりはしないのです。
 わたしはこんにちまで、この『多摩カトリックニューズ』の巻頭言を、みなさんの間で書いてきました。つまり新約の神殿の境内で。たまたまその場所が司祭間だったことは否めませんが、本質的には毎月みなさんとの関わりのなかで綴られてきたわけです。またときには府中教会や調布教会の方々との関わりのなかで、またときには教区行事をとおして関わってきた人々の間で、つまり新約の神殿の境内で。正直いって「毎月」はたいへんでした。しかし、それも後一回、やっと終わります。
 つきなみな挨拶でたいへん心苦しいのですが、6年間どうもありがとうございました。この「とき」をお借りしてみなさんにお礼を申し上げます。感謝を込めて。主イエス・キリストの父なる神の「神殿の境内で」。



新委員長竹内です。よろしくお願いします

                               竹内 秀弥

 人にお礼を言われることは嬉しいことです。ましてや自分はその人に、何にもして上げていないのに、お礼を言われたりすると、あとで気持ちが豊かになります。つい最近もこんなことがありました。ある先輩の方に「君の霊名の聖人のおかげで、大切にしていたものを無くしてしまい、ほとんど諦めかけていた矢先、奇跡的に見つかったよ」と言われ、とても感謝されました。ちなみに私の洗礼名はパドアのアントニオです。この聖人は天才的な説教に秀でた方であると同時に、失せ物を探し出してくださる方と言われております。
 先日、多摩教会のご婦人から「最近よく眠れない、睡眠不足で困っている」と相談を受けたのです。過去にも別な方から同様な相談を受けたことがあり、そんな時は「玉ねぎを千切りにして、枕もとに置いてみては」とか「寝る前に牛乳を飲んだらいいですよ」とか、人づてに聞いていたことを申し上げたのでしたが、今回は何げに「神様にわたしに熟睡をください」と祈ってみては、と口から出てしまいました。すぐに何と傲慢なことをと気が付きましたが、あとの祭りでした。こちらはお礼の言葉はまだです。先日の水曜日の講座のなかで、神父様は「神の恵みを自分の価値観で計っていないか」と、ヨブ記の中の解説でグサリと言われました。自分の都合の良いように考えていたら、神の恵みを知ることは難しいのだと、自分なりに理解しました。総会で私の挨拶の最後に、ある神父様の講座で「眠りに入る寸前に、今日の神からのお恵みの中で、一つだけを思い返し、そのことを感謝する。それを毎日続ければ、深い眠りか翌日神から多くの賜物を頂ける」との内容でした。
 カトリックは現世利益を求めない、とも伺っていますが、たまには宜しいのではと考えていますが・・・
 皆様と一緒に、多摩教会が砂漠のオアシスに向かって行きますように、ご協力をよろしくお願い致します。

任期を終えて

                                吉田 雨衣夫

今年も教会の周りの梅園にちらほらと梅が咲き始めました。
岩藤前委員長からバトンを受け2年が経ちました。長かったのか、短かったのか?
昨年の年初の活動方針については、あまり目立った成果はありませんでしたが、
@ 地区の活性化。各地区の様々な問題点・諸事情が相当はっきりしてきたようです。軽食サービスの在り方、典礼への係り方、地区内のコミュニケーション等、そろそろ地区も変容の時期にあるのではないでしょうか。
A 壮年の居場所。なかなかうまくいきません。なぜでしょう。
B 近隣との関わり。手始めとしてバザーの売り上げの一部を多摩市社会福祉協議会に寄付致しました。
最近は主日のミサも人数が増えて、いつもIO〜15人の方がエントランスホールでミサに与っています。「聖書と典礼」も不足する状況になっています。これらにも対策が必要ではないでしょうか?この2年間で多摩教会はどれ位前に進むことが出来たのでしょう。自問する日々です。

チースリク神父様のこと

                                 佐倉 リン子

 チースリク師との初めての出会いは1951年、私は津田塾の一年生だった。その年初めて津田塾カトリック研究会が発足し、チースリク師が指導司祭として小平のキャンパスに来られることになったのである。年に数回の集会を実現してくれたその頃の上級生は80才前後の今も健在である。チースリク師は他にも、例えば中央大学のカトリック研究会の指導に力をいれていらした。私が今に至るまで忘れられないのは、同大学夜間部のカトリック研究会のリーダー格だった青年が癌に侵されたとき、チースリク師がご聖体を持って連日見舞いに訪れ、彼がそれを喜びとして亡くなられたと聞いたことである。
 その後私は自分のこと、家族のことなどに気をとられ、又外国生活が長かったことから神父様とは疎遠になっていたが、津田カト研の先輩後輩諸氏が年一回の「チースリク師を囲む会」を継続させてくださっていた。神父様はフO才をすぎてから直腸癌の手術を受けられたので、最後のIO年間は治療の続きで不自由なお体だったが、年一回の「囲む会」は途絶えたことがなかった。聖母病院で手術を受けられ、翌日から周囲の反対を押し切って補助具につかまりながら歩かれた。その後も時々看護の人に付き添われながら九州方面に赴かれキリシタンの研究を続けていらした。大分県の知事が神父様を招待してくださったと聞いたこともある。
 あるとき例会にチースリク師が『秋月のキリシタン』(H.チースリク著・高祖敏明監修)を持って来られ、なにかむつかしそうな本だなと思ったのだが、長年お世話になっている師の著書であるから、と思い、いただいた。その時の師の言葉が私の胸に突き剌さるように残っている。「多分この本は古本屋か、ごみ箱に直行するでしょう。」それより以前1993年にも、キリシタン文化研究会より出版された、H・チースリク著『キリシタン時代の邦人司祭』をいただいたのに読みかけのまま放ってあったからである。
 さて帰宅して『秋月のキリシタン』を開いて読み始めて驚嘆した。穫れたての歴史とはこういうものか、丹精をこめ手塩にかけた史実とはこういうものか、このように新鮮で色も艶も昧も汲み尽くせない歴史書には今までお目にかかったことがない、と思った。
 もうひとつ驚いたのはこの本の日本語である。チースリク師が亡くなられてまもなく聖イグナチオ教会の附属館で開かれた集りで、お名前は失念したが、イエズス会の日本人の神父様に『秋月のキリシタン』の日本語についてお話したところ、あれは日本人の神父又は神学生が何人かでチースリク師と額をつき合わせて師の満足のゆくまで練り直しを重ねた文章である、と聞かされた。『秋月のキリシタン』の最後の仕上げは、異言語と異文化の衝突の苦しみを通り抜けてなされたもの、とそのとき始めて気づかされた。
 昨秋ペテロ岐部と187人の殉教者の列福式が盛大に行われた。溝部司教様のお話にあったように、チースリク師のキリシタン発掘のお仕事なくしては、このような殉教者の顕彰はあり得なかったであろう。
 ご自分を語ることの少なかったチースリク師から、時々聞いたお話をつなぎ合わせると以下のような話になる。神父様が生まれたときは、父上は第一次世界大戦のドイツ兵として戦地にあり、我が子を見ることなく戦死された。母上は「この子が無事に生まれ育ったら神様に捧げます。」と祈っていらした。やがて伯父様の助けを借りてお母様が野菜を積んだ荷車を引いて売り歩かれ、神父様はその野菜の上に座っていらした。10代の頃、日本人のペンパルができた。神学校で日本への宣教師を募集した時応募したが、頭痛持ちで顔色の冴えない神学生は異国の生活に堪えられないだろうと、いったんははねられた。でも志願者が足りなかったので元気な神学生の仲間に加わった。後年、元気だった仲間の神父達は亡くなり、自分が古希を迎えるまで残った。それより前、第二次大戦直後、司祭に叙階されたとき、母上に会いに帰国することになっていたが、ベルリンの壁ができて東独には帰れず、遂に母上に会えなかった。その昔神戸に着いたとき丁度20歳で、そのときすでに頭髪が少なかったが、それは遺伝である。
 チースリク師の亡くなる前年であったと思うが、あろうことか私の娘が、「広島に原子爆弾が落ちたとき、イエズス会の建物と人だけ無傷だったのは奇跡である、とアメリカ人の神父の書いたものがある、」と主張する。私は「そんなことはあり得ない、」と言ったが、容易に引き下がる相手ではない。これは次の「囲む会」で是非原爆体験者のチースリク師に証言していただかなくてはならない。私の質問を受けた師は「その様な文が出ているそうですが、それは間違いです。」と被爆の様子を水が流れ出すようにゆっくりと明確に語ってくださった。そのお話の中で私がふと不思議に思いそして心打たれたのは、若き神学生のチースリク師がもうー人の神学生と二人で、広島市内から郊外の長束の修道院に何か起こったかを報告するために歩いてゆく間、被爆した人々と出会い、その中で火傷を負い衰弱した日本の兵隊達「皆若いでした」が、それでもー生懸命歩いているのとすれ違い、「とっても可哀相でした。」とおっしやったその声に涙を押さえるような気配を感じたことであった。その瞬間のことを思い出し、最近私が考えるのは、若しかするとチースリク師はその日本兵達の姿に、敗戦の兵として若くして斃れたご自分の父上を重ねていらしたかもしれない、ということである。
 新茶<み 殉教史説く 老司祭
            チースリク師に捧ぐ 高井光子(2002年帰天・86才)
高井光子さんは2001年に多摩教会に籍を移される前、長年四ツ谷聖イグナチオ教会に属していらっしゃった。

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