私は今まで、海外のカトリック系の音楽学校でミサ曲や宗教曲を学んだり、教会で合唱曲を歌ったり、神父様に悩みを聞いていただいたり、身内がカトリック信者だったりと、教会やカトリックに触れる機会はたくさんあり、身近な存在でした。そういうことからか、教会へ足を踏み入れると気持ちがとても落ち着き、いつか自分も洗礼を受ける日が来るんだろうと、漠然と感じていました。しかし、たびたび聞こえてきたカトリックの教えの中で自分が納得できないものがあったため、神を完全に信じることができず、なかなか信者にはなれずにいました。
そんなある時、晴佐久神父様という有名な方の入門講座があるから出てみない、と誘われ、講座を受け始めました。この講座は、「私は神から愛されている」ということと、「私は救われている」ということをいつも感じられるような内容で元気が出ましたし、また、ずっと疑問に思ってきたカトリックの教えの一部についても、フランシスコ教皇が見直すべきというような内容の演説をされたということを聞き、だんだんと引っかかっていたモヤモヤが晴れていくような感覚を受け、自然と、洗礼を受けようという気持ちになりました。
洗礼を受けることを決心してからは、受洗後もそうですが、ミサの内容や意味をより深く考えるようになり、宗教曲に関しても、ただ歌ったり聴いたりするだけではなく、やはり今までとは全然違った感じかたをするようになりました。
洗礼を受けてから、自分の中で何かが劇的に変化したということはありませんが、洗礼式で水をかけられて以来、以前に比べてとても清々しい気持ちで日々を過ごせるようになりました。
私はこの多摩教会でこの年に洗礼を受けたということは、すべて神様の導きだと感じています。これからも感謝の気持ちを忘れず、いろんな人のために祈ろうと思います。
感謝(受洗者記念文集)
始めにこの度の受洗にあたり、洗礼を授けてくださった晴佐久神父様、代親を引き受けてくれた島仲間のけんけん、さまざまな形で私たち受洗者皆さんに寄り添っていただいた入門講座スタッフの方々、教会の皆さま、そして家族の皆々に感謝を伝えたいと思います。
ありがとうございました。
ここに至るまで、カトリック教会、晴佐久神父様とは神父様が毎年行かれる無人島の島ミーティングをきっかけにもう10年になります。これまで家族を通じて、教会にお世話になってきました。毎週のミサにも家族で
そして、2014年の正月、あるきっかけから晴佐久神父と面談をすることになりました。その際に次のようにお話しました。結婚式、幼児洗礼、子どもの初聖体と家族を通じ教会と関わってきましたが、今の時点ではまだ受けた方がいいのかわからず、ただ、「特に受けたいかと聞かれるとそうでもないし、絶対に嫌かというと、それもそういうわけでもない」と伝えました。神父様は、「すでにこれまで教会と交わった中で過ごしているので、あなたは幼児洗礼といった方が当てはまるのかもしれないですね」と言われました。そんなきっかけからでした。まだまだ入り口に入ったところなので、これからより深く関わっていくことになるのだと思います。
昨年くらいから仕事においても環境が刻々と変わり、大きな転機に来たのだと感じていました。何か大きな流れを感じずにはいられないと思います。神父様はときどき、教会を船に例えておられますが、まさにそれです。今年の正月早々船が近づいて来ました。何か大きな力が働き、周りの皆さんに引っぱられながら船に乗せていただいたというのがしっくりくる気がしています。自分では進めないところを後押ししてもらいました。そして洗礼を授かりました。それに前後して、嬉しいことにいろんな方々にいろんな形で祝福を頂きました。今まで以上に周りの方々に支えられているということを強く実感し、こうして関わらせていただいていることは本当に幸せなことなのだとより一層強く感じています。
そしてこれからも引き続きよろしくお願いします。
巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英「限りなく透明なキリスト教」
このたび、佐藤初女さんの新著がダイヤモンド社から出版されました。
「限りなく透明に凛として生きる」というタイトルで、初女さんが日ごろから大切にしているキーワード、「透明」について語っている本です。
本の帯に「透明であれば、ほんとうに生きやすい。」とあるように、「何かになる」生き方ではなく、すでに自分の中にあるものを大切にして、「透明になって真実に生きる」ありかたを勧めています。
「『自分』が大きくなりすぎているこの時代こそ、わたしは生活の中に『信仰』や『祈り』を入れていき、素直な心で『はい』『ありがとう』『ごめんなさい』と言えることが透明に近づく第一歩なのではないかと思うのです」(5ページ)
「特定の神や宗教にすがらなくても、日々『透明』を意識することで、正しい方向に導かれる声はだれにでも聞こえてくるものです」(103ページ)
など、まさにキリスト教の最も深いところに流れている、透き通るような普遍性を感じさせる言葉の数々に満ちている本です。
巻末に、初女さんと晴佐久神父の対談も載っていて、私が、キリスト教の透明性や、自分自身が人と向かい合う時に透明であろうとしていることなどを語っています。
「よくイエス・キリストを窓ガラスにたとえたりするんですよ。神さまが太陽で、イエスがほんとうに透明な天国の窓だから、神さまの愛をすべて与えてくれると」(161ページ)
つい先日、谷川俊太郎さんとも対談する機会がありました。
谷川さんもまた、不思議に「透明」な詩人です。その透明さに魅せられて詩を読み続けてきた一人として、谷川さんのご自宅での透き通るひとときは、忘れがたい体験になりました。澄んだ春の日差しの中、中庭で満開の白梅が光っているのが、なんだか宇宙的な出来事に見えてしまいましたが、この感じは谷川ファンなら分かってくれるでしょう。
中学三年生の時に初めて読んだ、文庫本の「谷川俊太郎詩集」。その中でも、強烈な印象を受けた「六十二のソネット」の中に、こんな一節があります。
「空の青さをみつめていると/私に帰るところがあるような気がする」(41番より)
これを書いた62年後、昨年末に刊行された最新詩集「おやすみ神たち」で、詩人はこう書いています。
「空という言葉を忘れて/空を見られますか?/生まれたての赤んぼのように」(「空」より)
詩人の生涯は、まさしく「透明」を見つめる生涯でした。その「透明」を、キリスト教では「神」と呼び、その透明さが人を救うのだということを、対談ではお話したのでした。「谷川俊太郎のことばをこそ、今の世界は求めているんです」と。
「谷川さん、詩をひとつ作ってください。」というタイトルの映画に、日本カトリック映画賞を贈ることになりましたが、私は授賞理由の中に、こう書きました。
「透明な『天のことば』と、汚れと情熱を孕む『地のことば』のあわいを生き、天地を結ぶよう召された者が、真の詩人なのではないか。それは本来ならば宗教の使命のはずなのだが、彼らの多くはいまや天のことばに勝手な色を塗り、地のことばを暴力で支配している。今、だれもが求めているのは、欲望も悲しみも愚かさもすべて含めて人間を普遍的に祝福することば、すなわち詩なのである」(「このような映画を見たことがない」より)
キリスト教は、限りなく透明です。あらゆる色を受け止め、あらゆる出来事を包みます。
澄み切った詩のことばで神の愛を語ることこそが、キリスト教の美しさなのです。
連載コラム:「オアシスを心で記憶する」
オアシスを心で記憶する
2年前にある計画をたてました。それは、多摩教会に青年会を作ること。この教会には青年同士で集まるコミュニティーがありませんでした。
そこで2年前に青年会を作ることを決意しました。一人一人に呼びかけました。みんなは戸惑いながらもついて来てくれました。時には自分だけが盛り上がってるのかもしれないと思い、とても不安になりました。
振り向けば誰もいないのではないだろうか? そう思う時もありました。でも、みんなしっかり付いて来てくれました!
そして今回ついに正式な青年会として認めらたのです。教会には青年達が必要です。そして今の時代だからこそ青年会という集まりは大きな意味を持つでしょう。
いま、教会に来る青年達が少なくなっています。それを昔の人たちはこう言います。
「昔は青年がいっぱいで教会は盛り上がってた」と。
だったら俺達にも出来るはず。この教会を盛り上げられるはず。10代、20代はとても大事な時期です。大人たちが勝手にやってきた教育の責任を押し付けられ、面白くもない昔話を聞かされる毎日に疲れているはずです。青年達の居場所が必要です。楽しいことや辛いことをシェアしてくれることが必要です。
「心の記憶」を増やしていきましょう。「頭の記憶」ではダメです。例えば皆さんは中学校で習った因数分解を覚えてますか? きっと思い出せないはずです。
なぜなら頭で記憶したからです。でも中学のときに友達といった場所、好きな人に告白した言葉は、何故か鮮明に覚えてるはずです。それは「心で記憶」したからです。
そんな「心の記憶」を増やしていく場所が青年会であってほしいです。そして、われわれ青年会は真の家族です。家族を愛するように隣人を愛す、そんな愛が今の日本は薄れていると思います。
沖縄には警察も医者もいない島がいくつかあります。その島では事件・事故が起きません。みんなが家族のように愛し合っています。そこは小さな島ですが、とても大きな愛があるはずです。
似たように僕たちも真の家族です。最初は恥じらいがあっても、そんなの1時間で無くなります。1時間後には家族になっているのです。
新しく青年会が出来るのは、とても稀なことだそうです。でもこの教会には青年同士が集まれるオアシスがあるのです。
われわれ青年は社会にもまれて、汚くなります。醜くなります。そんな醜さも愛せる青年会になりたいです。
今の世代の青年達だけで作り上げた「愛」の溢れた青年会、そして青年たちのオアシスはとても脆く崩れやすいですが、僕達は負けません。
そして必ず僕達が守り抜きます。 アーメン
「初金家族の会」からのお知らせ
3月6日初金ミサに続き神父様と一緒のお祈りの後、写真を信徒館2階のモニターで見ながら、お話しを聞きましょうとの提案を受けて2階に移っての家族の会となりました。
卓話のテーマは、昨秋に引き続き、南大沢・堀之内地区の尾崎ひろみさんがご主人と歩かれた「サンチャゴ・デ・コンポステーラ巡礼の旅」で、スライド写真を交えて、美しい風景や、同じ路をたどる人たちとの交流など盛り沢山の内容でした。尾崎さんが巡礼のために体力強化の準備をなさったことや、沢山の書籍で勉強された予備知識など、一般のツアー旅行と違う本当の巡礼の旅を感じました。
誰もが一度は夢見るサンチャゴ・デ・コンポステーラへの巡礼ですので、出席者からも真剣な質問が相次ぎ、素晴らしい分かち合いの雰囲気でした。尾崎さんがまた巡礼の旅をなさったら、ぜひお話しをとの声も出ました。
4月は聖金曜日で初金ミサ、初金家族の会はありません。
次回は5月1日、初金ごミサの後、中嶋誠さんの長崎での「信徒発見150周年行事」に参加された体験談を予定しています。皆様どうぞご参加ください。
「みんなちがって、みんないい」、初金家族の会は、毎月第一金曜日のごミサ後、おひるまでの1時間、楽しく歓談しながら絆を深める自由な集いです。どうぞどなた様も、ご自由にご参加ください。
巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英「『自己責任』で背負った十字架」
ジャーナリストの後藤 健二さんが、通称「イスラム国」の武装グループに拘束され、殺害されたというニュースは、日本人の心に大きな傷を残しました。
彼の釈放を願い、祈り続けたにもかかわらず、最悪の結果となってしまったことで、多くの人が無力感にとらわれ、恐怖心や嫌悪感、時に応報感情さえも生まれていることは事実です。
つい先日も、入門講座の中で、一人のご婦人がこの事件に触れ、「あんなに祈ったのにこんな残酷な結果となってしまい、心がとても苦しい。神は何をお考えなのかわからない」と、涙ぐまれたような様子で語っておられました。
しかし、どんな出来事であっても、われわれキリスト者は信仰の光に照らして受け止めなければなりません。
第一に、後藤さんを殺害したのは神ではありません。それは、人間です。それも、遠い世界の魔物ではなく、今も現実にこの世に暮らしている、私たちと同じ人間です。認めたくないかもしれませんが、私たちも同じ罪深い人間として、ひとたび悪い環境が整えば加害者となりうる可能性を秘めていますし、貧しい報道をうのみにして、「あんな悪魔みたいな人たちは早く壊滅してほしい」と思っているだけでも、実はすでに加害者に荷担しているかも知れないのです。
このような出来事を、決して善悪二元論におとしめてはなりません。これは私たち全員の問題であり、私たち全員の回心を促す問題なのです。
普段そのような「我がうちなる我欲や暴力、復讐心」に気づかずに、自分は正常である、善良であると思い込んでいる人ほど、他者の暴力は理解しがたく、衝撃的に感じてしまいます。しかし、「あんなやつらは軍隊を送って滅ぼしてしまえ」という感情と、「こんな西欧社会はテロで滅ぼしてしまえ」という感情の、どこが違うのでしょうか。
「神よ何故」と言う前に、「人間よ何故」と問うべきですし、「理解しがたいテロリスト」に震撼する前に、常に自らを正当化し、他者を裁く、「我が内なるテロリズム」や「強者や強国に秘められた隠された暴力」にこそ震撼するべきでしょう。「隣人愛を忘れた人類の罪」に一番傷ついているのは、むしろ神なのですから。
第二に、後藤さんの死をただ嘆いたり悔やんだりするのは、最も本人が望んでいないことだ、ということです。彼が望んでいたのは、どんな犠牲を払ってでも実現すべき平和、子どもたちが安心して笑顔で暮らせる社会だからです。わたしたちは彼の犠牲を無駄にすることがないように、忍耐強く対話を続け、寛容と共生の道を模索し続けるべきではないでしょうか。
後藤さんが「話せばわかる」を信念としていたことを、「安易だ」「理想論だ」で片づけるのは簡単です。その行動を「自殺行為だ」「自己責任だ」と批判するのも、簡単です。批判が悪いと言っているのではありません。簡単だと言っているのです。それに比べて、どこまでも弱者の側に立ち、傷つけられる側に寄り添おうとし、和解の可能性を信じて行動するのは、なんと難しいことでしょうか。しかし、クリスチャンである後藤さんの行動原理はキリストにあったでしょうし、「命に至る道」として困難な道を進み、「狭い門」をくぐろうとする以外に、彼にとっての選択肢はなかったのだと思います。
思えば、十字架に向かうキリストの姿は、まさに「自殺行為」であり「自己責任」でした。しかしそれは、すべての暴力を打ち止めにしようとする「自殺行為」であり、人の罪の責任を問わず、自らが「自己責任」で背負った十字架だったのです。
キリスト教は、十字架教です。十字架教の信者は、試練の時、困難の時、争いの時こそ、十字架を見つめ、そこに希望を見出します。十字架は、復活の始まりだからです。
後藤 健二の真の活動は、これから始まります。
連載コラム:「アンジェラの千羽鶴」
アンジェラの千羽鶴
信徒館の売店アンジェラの壁に飾られた千羽鶴をご存じでしょうか?
とても小さな折り紙で折られていて、10色のグラデーションにつなげ、セロファンで包みリボンで飾りつるされています。日本古来の祈りの文化としての折り鶴がこのような形で美しく飾られているのを見て、どなたが、どのような祈りを込めて折られたものなのか気になっていました。
戦後70年になります。私は1944年生まれで、出生時に父は戦地にいました。小学校の担任の先生はシベリアの戦地での苦しさ、つらさをことあるごとに語ってくださいました。高校の担任の先生は戦争未亡人の英語の先生で、米国の雑誌に「夫を返せ」という記事を投稿されていました。
壺井栄の「24の瞳」の映画を見て涙し、主人公の大石先生にあこがれ、戦争のない世界にするために自分にできることは先生になることだと考えて、今に至りました。今年度で70才になり定年です。
これから教師をめざす学生の講座での最後の授業で、上記のことを話しました。そして、アンジェラの千羽鶴をお借りして持っていき、祈りと平和のシンボルであるひとつの形である千羽鶴を一人ひとりに手渡しで見ていただきました。「バトンをお渡ししますよ! これからの世の中を歩むのはあなたたちですよ! うれしいとき、苦しい時つらいとき、祈りを忘れずにね!」という思いを伝えました。教壇を去るさみしさ以上に、全てやり終えたという大きな安堵感がありました。世界平和にはほど遠い昨今ですが、たすきは渡しました。私が天国に召されるときも、きっとこのような気持ちになるのだろうと思いました。
この千羽鶴をお借りしている矢先に、その千羽鶴を作った方のご家族が亡くなられました。私も昨年、家族を不慮な思いで送っていましたので、若い方の旅立ちのつらさがこたえました。そして、あの千羽鶴の願いは亡くなったご家族と同様、心の病で苦しむ方々への祈りであったこともわかりました。そしてその千羽鶴を作った方が、更に小型の千羽鶴をご丁寧なお手紙と共に私と嫁にプレゼントしてくださいました。千羽の鶴を折ることがどんなに大変かわかっているだけに、そのお心に涙しました。
2011年にご縁があって、この多摩教会を選び、洗礼を授かりました。昨年度から地区委員、コルベ会を担当し、初めて司牧評議会に出席しました。この教会を支えるために、これほど多くの方々がさまざまな係りを担当されて、成り立ていることにビックリしました。
教会は学校のようだと思いました。神父様という校長先生、司牧評議会という生徒会、さまざまな部活、バサー、軽食、大掃除等々、活動にかかわりながら、友達もどんどん増えていきました。職場もなくなり、地域社会も希薄です。ひとつの信条のもとに集い、共に歩めるこの教会学校に、入学できて本当によかったと思います。
祈りとは、聖書とは、など、まだまだわかってないことだらけですが、諸先輩の皆さまのご指導を受けながら、進んでいきたいと思っています。いよいよ人生の終焉に向けて、更なるミステリーランドにチャレンジできるワクワク感はいくつになっても心が躍ります。二度の癌を経験し、多くの方々に助けていただき、現在に至りました。そのご恩返しを今与えられたこの場で果たさせていただくことが私にとっての心のオアシスです。
「初金家族の会」からのお知らせ
2月6日は、初金ごミサのあと、茶話会でなごやかなひと時を過ごしました。
次回3月6日の初金家族の会では、南大沢にお住いの尾崎ひろみさんに昨秋に引き続き、サンチャゴ・デ・コンポステーラ巡礼の旅のお話しをしていただく予定です。貴重なご体験談と、旅での記録写真のご披露です。
「みんなちがって、みんないい」、初金家族の会は、毎月第一金曜日のごミサ後、おひるまでの1時間、楽しく歓談しながら絆を深める自由な集いです。どうぞどなた様も、ご自由にご参加ください。
