巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英神父

市民クリスマス

主任司祭 晴佐久 昌英 神父

 いつのころからか、「市民クリスマス」という行事に講師・メッセンジャーとして招かれることが多くなりました。
 「市民クリスマス」というのは、12月の日曜午後などに、市民ホールのようなところに信者はもちろん一般の人も集めて、共に祈ったりキャロルを歌ったり、ゲストの演奏や講師のメッセージを聞いたりする集いです。多くの場合はプロテスタント諸教派とカトリック教会が合同で主催しています。
 そのような集まりに招かれることは、信仰の有無や教派の違いを越えて、だれにでも通用する普遍的な福音を語る神父だと思われているという意味では、とても名誉なことですし、その期待に応えたいという熱い思いも湧いてきます。

 今年もさる日曜日、鹿児島の市民クリスマスでお話をしてきました。鹿児島はさすがに遠く、多摩教会の主日ミサを終えてすぐに羽田に向かい、飛行機の中で遅い昼食を済ませ、鹿児島に着くと迎えの車が来ていて、高速を飛ばして会場に着くとすでに大勢集まっている・・・そんなバタバタな感じでしたけど、どこも似たようなものですし、それでもいいよと自分に言い聞かせています。ともかくも、ほんの一つでも福音を語れるなら、慌ただしかろうと、準備不足だろうと、仕方ないよ、と。
 もっとも、今回の鹿児島はいつもとは違って、「なるべく晴佐久神父の話を長く」という趣旨で、演奏やコーラスを省いた企画になっていたため、「90分以上、たっぷりお話しください」と言われました。「どうぞ好きなだけ」ということでなんだかうれしくなり、夢中になって時間オーバーしてしゃべりまくってしまいました。
 一般の人もいるところで好きなだけ福音を語れるというのは、キリスト者として本当にうれしいことです。想像してみてください。鹿児島のどこかに、つらい試練に見舞われている人がいます。30代の女性としましょう。彼女は生きる意味を見失い、自分は見捨てられたと感じてうつ状態になり、必死に救いを求めています。ある日、ふと教会の前を通りかかると、「市民クリスマス」というポスターが貼ってあります。もうクリスマスかと、何気なく読んでみると、こう書いてありました。
  講師:晴佐久昌英先生・演題:神さまとの絆
  内容:「親子の絆が切れないように、神と人との絆は決して切れません。お母さんと手をつないで歩く幼子のように、安心して歩んでまいりましょう。愛するわが子の手を、お母さんは絶対に放さないのですから」
 (神さまなんて、ホントにいるのかしら・・・でも、行ってみようかな)
 そうして彼女が当日、会場の隅に座っていると、神父が出てきて話し出します。
 「つらかったでしょうけど、もう大丈夫です。安心してください。今、神さまは、キリストの口をとおして、あなたに話しかけています。『お前を愛しているよ』と」
 彼女の目から、とっても素直な涙がこぼれ落ちます。
 「信じてみようかな・・・」

 鹿児島では、10年近く前にも、講演会をしたことがあります。そのときも、すべての人を救うまことの神の親心についてお話しし、あなたはもう救われていると宣言し、神の愛に目覚めて洗礼を受けましょうと呼びかけたところ、それに応えて受洗を決意し、実際に翌年洗礼を受けたという人が現れました。今回はその人が、ぜひ救ってあげたいと思っている友人を連れて来ていましたので、同じように呼びかけましたが、こうして、時代を超えて救い主が働き続けている事実に、感無量でした。
 クリスマスとは、つらい現実を生きている人のところに、神の愛そのものである救い主が生まれてくるという、現実の出来事です。その意味では、集まった様々な人の心の中に実際に神の愛が生まれる市民クリスマスこそは、まさにこれぞクリスマス、と言っていいでしょう。
 多摩教会では、12月23日に「祈りと聖劇の夕べ」を開催します。単独の教会ではありますが、これもまた多摩市における市民クリスマスです。救ってあげたい方がおられましたら、ぜひお招きください。