巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英神父

十字を切る

主任司祭 晴佐久 昌英 神父

 「父と子と聖霊のみ名によって、アーメン」
 幼いころ、初めて十字を切ってから今日まで、何回十字を切って来たことでしょうか。家庭祭壇の前で切ったり、食事の前に切ったり。苦しいときに切ったり、願い事をしながら切ったり。自らの叙階式で切ったり、亡くなった母親の枕もとで切ったり。そうしていつの日か、生涯最後の十字を切るときも来るのでしょう。十字を切る祈りは、いつも身近にあって、ぼくの人生を支え、導いてくれました。

 その恩返しという意味も込めて、この10月に、その名も「十字を切る」という本を出版しました。著作としては18冊目ということになりますが、今までで一番自分らしい本であると思っています。十字の祈りの切り方とその意味、十字の祈りの恵み深さとその尊い本質について様々な例をあげて解説したもので、ひとことで言うならば「十字を切れば救われる」ということが書いてあります。
 もっとも、「十字を切れば救われる」は言葉のあやで、決して十字を切るという行為が自動的に救いをもたらすということではなく、正確に言うならば「すでに救われていることに目覚めて十字を切り、十字を切ることでいっそう救いの喜びを深める」というようなことなのですが、いずれにしても、本の帯にも書いたとおり「あなたを救う、最短最強の祈り」である十字の祈りをもっと広く知ってもらいたい、それによって神の愛にもっと深く目覚めてもらいたいという、熱い思いで書いたものです。
 なるべくわかりやすく、読みやすく書いたつもりですが、早速都内の方からこんなお便りをいただいて、大変うれしく、励まされました。
 「初めてお便りさせて頂きます。昨日、今回お出しになった『十字を切る』を拝読いたしました。素晴らしい内容にひきつけられ、一気に読み通しました。生まれてこの方初めてです。幼児洗礼で齢七十八歳になろうとする私ですが、これほど深く考えて十字を切って居りませんでした。本当に有難うございました。神さまからのプレゼントとも思って居ります。あまりの感動に一言御礼申し上げたくてペンをとりました・・・後略」
 「生まれて初めて、一気に読み通した」というところが特にうれしかったのです。それだけ読みやすいということですし、それだけ感動があるということですから。数限りなく用いられながらも、常に無造作に扱われ、日ごろちゃんと顧みられていない十字の祈りも、さぞかし喜んでくれているだろうと思います。

 カトリック教会は普遍教会ですから、常に「いつでも、どこでも、だれでも、どんな場合でも」通用する教えであるべきですし、そのためにいつも普遍的なことば、普遍的なかたちを模索し、工夫し続けています。カトリック(普遍)は、カトリックをめざすことにおいてのみ、カトリックでありうるということです。ぼくも、そのような普遍的な福音を語ることに関しては職人芸、名人芸のような領域をめざして来ましたが、その意味ではこの十字の祈りほど普遍的な福音を秘めているものはなく、これまでの経験からも、これほど便利で効果的な道具はないというのが実感です。
 苦しみのさなか、もはや祈る言葉もないという時があります。疲れ果てて、もはや何かする気力も残っていないということもあります。死を目前にして、もはやなすすべもないという瞬間もくるかもしれません。そんな時、最後の最後に残るのは、単純で、それでいて究極の希望をもたらす十字の祈りなのです。

 日本には法然と親鸞という、それぞれ浄土宗、浄土真宗の偉大な開祖がおります。この二人は、すべての人が「南無阿弥陀仏」と唱えれば救われる、それこそが弥陀の本願であるという、まさに普遍の極みとも言うべき教えをもって、衆生を救ってきました。日本人はこのような普遍性に対する、優れた感性を持っている民族です。当然のことながら、十字の祈りの普遍性をも深く理解し、その本質を受け入れる力も持っているに違いありません。

 すべての人が神の子であり、神に愛されて生きており、どんな悪人もその愛の中を生きているし、だれでも十字を切って神の愛に目覚めるならば、そこに救いが現実となるというこの祈りの心は、現代の日本が最も必要としているものです。
 いつの日か、日本中でごく自然に十字を切る姿が見られることを夢見つつ、みんなで十字を切り続けようではありませんか。
 父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。


※ホームページ内、「晴佐久神父:新刊のお知らせ」でもご紹介させていただいております。宜しければご覧ください。