連載コラム:「神の生命と、私たち人類の憧れ」

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連載コラム「スローガンの実現に向かって」第91回
神の生命と、私たち人類の憧れ

福音史家ヨハネ 山口 泰司

 私たちは、日々、様々な想いの中に生きている。差し迫った現実の問題から、とりとめのない夢想に至るまで、私たちの多様な想いは、千変万化で止むところを知らない。だがしかし、いまだ手にしていないものを、何とか手にしたいという切なる願い、問題解決への止みがたい憧れなど、人間の表層から深層にわたる多種多様な営みの一切を、均しく根底で突き動かしているのは、ただ一つ、聖なる「神の国」への憧れに他ならない。
 私たちが、自然の美しく荘厳な姿を前にして息を呑んだり、自然や社会の隠れた法則の発見に心躍らせたり、紛争国が矛を収めて握手するニュースに胸をなでおろしたりするのは勿論のこと、和やかな音楽の一節に心を奪われたり、白熱のスポーツ競技に興奮したり、お笑い芸人の冗談に腹をよじって笑ったり、はたまた山海の珍味を仲間と味わう幸せに、生きる喜びを味わったりするのも、すべて、私たちの「神の国」への憧れが、部分的に成就したことによるのである。

 では、そうした聖なる世界への憧れは、私たちのどこからやってくるのだろうか。私たちの頭(理性)からでも、私たちの胸(情緒)からでも、私たちの体(感性)からでも、私たちの動物的ないしは植物的な神経(本能)からでもないことは、確かである。これらは、その願いや憧れを、この世で成就したり表現したりするときの、ただの道具でしかないからだ。私たちの全ての憧れは、人間の理性と情緒と感性と本能のすべてを貫いて、これらを根底から突き動かしている、これら一切より無限に深いところに発し、これら一切より無限に高いところにまで及ぼうとする、私たち自身の生命より生まれてくるのだ。
 では、その生命は、どこから生まれてくるのか。それは、直近のところでは、この世の一切万物が生まれたとされる138億年前の天地創造の時からだとも言えるが、それは、本来、姿なき生命が、物質的な形態をとった時のこのことでしかない。私たちの姿なき生命は、元々、永遠の神の生命とともにあって、生まれることも死ぬこともない存在として、おのずからなる歓びを、無限の意識とともに湛えていたのだ。
 では、その生命が、私たち自身の内なる願いとして、すべての願いと憧れを根底から突き動かしているというのは、いったい何故なのか。それは、神の姿なき永遠の生命が、物質的形態をとってこの世に降り、順に、大自然の物理的生命進化、化学的生命進化、生理的生命進化、情動的生命進化、情緒的生命進化のプロセスなどを経た末に、その総決算として、理性的生命進化の受け皿として人間の肉体を準備したとき、神ご自身が、再び、私たち自身の姿なき魂となって、私たちの肉体に直々に降り立ったからだ。

 このようにして、私たちは、神の〈聖なる大自然〉の一環としての人間の、〈聖なる肉体〉の最奥の至聖所に、神の今一つの姿、神ご自身の〈永遠の生命〉として、つまりは神の超自然的な〈魂〉として、ひそかに息づいているのであるが、この霊的〈魂〉は、神ご自身の無限の叡智(真)と愛(善)と力(美)の一切をそのまま湛えた〈聖なるもの〉として、私たち自身のかつての原型である〈受精卵〉に降り立ったあと、自らの変容を通して、私たちのその後の成長を一貫して内側から支え、促し、導き続けて今日に到り、私たちに、更なる進化を迫って止まないのである。そのわけは、愛そのものである神ご自身が、自からの独り児である人類に、更なる進化を通して〈神人一体の栄光〉を輝かせ、一切万物の先頭に立って、愛に基づく麗しい霊的共同体を、この地上に結ばせたいと願っているからに、他ならない。
 したがって、私たちの魂の切なる願いも、内なる神ご自身の願いそのままに、自らを包んでいる物質的な本能と感性と情緒と理性の衣を、慎重に一枚一枚脱ぎ捨てながら、それらの制約から自らを一歩一歩解放して、さらなる高みに達することにあるのだと言ってよい。言い換えるなら、私たち人類の根源的な願いは、こぞって天使的存在へと進化を遂げて、地上に「神の国」を樹立し、そこで、神と自然と人間が不可分一体の中で真に調和する世界を、心から満喫することにあるのである。
 それなのに、私たち人類は、人類としての、民族としての、国家としての、個人としての、長く苦難に満ちたプロセスをたどるうちに、いつしか人類と民族と国家と個人に固有な、〈エゴイズム〉という名の〈無知なる想い〉を育ててしまい、その結果、魂自身の栄光への道を、我知らず妨げているのである。私たち人類が、自らの隠れた本質的な願いと憧れに従って、魂本来の輝きを発揮するためには、あらためて、内なる神の永遠の生命は即ち、自らの魂に一重に帰依して、その表面に付着した蜃気楼のようにはかない諸々の利己心を、日々の瞑想と祈りと精進によって、ひたすら浄化していくしかない・・・。

 以上が、私の専攻するインドの、古代以来、現代に到るまで連綿と続く〈ヴェーダーンタ哲学〉の、神の生命と人類の願いをめぐる理論の概要であるが、これは、昨年暮れ以来、私が教会のミサに出席することを通して、イエス様御自身の教えの本髄として感じ取ったことと、見方を変えれば、本質的には、そのまま重なり、そのまま通じるようにも思われて、4月に受洗したことの深い意義に、ますます大きな喜びと感謝を、あらためて感じている次第である。