洗礼をうけて

浅田 千恵子(仮名)

 「お母さん、私も洗礼を受けました。」と私は母に報告しました。母は18年前に寂しさの中で天に召されました。
 私の夫の転勤で5人家族だった私たちは、母をキリスト教系のホームにお願いしてチェコスロバキアへ赴任しました。母はプライドが高くホームの誰とも馴染めなかったようです。
 その2年後、叔父から、母が誤嚥(ごえん)のため救急病院に運ばれたと電話がありました。私は取る物も取りあえず、帰国しました。担当医から80%は脳死状態なので、明日かもしれないし、3年後かもしれないと説明がありました。
 母は3週間後に亡くなりました。私はホームの母の部屋に寝泊まりしながら病院に通っていたのですが、その時ホームの方から母がクリスチャンであることを初めて聞きました。寂しかったのでしょう。私も二人の子供が海外赴任になり、その寂しさが理解できます。

 母の死後、私も教会へ行ってみようと思い続けていましたが、転機が訪れたのは2010年の鈴木秀子シスターの本との出会いでした。
 シスターの教えに救われ、講話会に参加するようになり、Mさんと出会い、多摩教会、晴佐久神父様のもとに導かれました。振り返れば、教会までの道のりは長かったようですが、最短距離で、神のもとに導いていただけたと思っています。シスターの教えは助走であり、神父様のご指導で離陸を可能にしていただきました。Mさんとの出会いに感謝しております。

 間もなく洗礼志願書が配られましたがとても不安でした。未熟な私ですが、大いなるものに背中を押されているように感じ、受洗を決めました。洗礼を受けた夜、しみじみと幸福感を味わいました。
 そして、1週間後の今は、私を教会に向かわせてくれたのは、私の母でもあったことに気が付きました。「お母さん、本当に寂しい思いをさせてごめんなさい。私もお母さんと同じ道を歩き始めました」。その時、そばにいた娘がポツンと言いました。「お母さんは、おばあちゃんと同じ方向にいくのね。私もそうなるのかしら?」それから、にっこり微笑んで「洗礼を受けることができてよかったわね」と言ってくれました。その祝福の言葉に私は娘の優しさを感じました。

 これからも、多摩教会の皆様と共に学んでいきたいのですが、残念ながら、私は近いうちに単身赴任中である夫の居住地福岡に引っ越します。教会の皆様との絆は生涯大切にしていきたいと思っています。
 晴佐久神父様やその他の多くの皆様に心より感謝しております。
 天のお父様、私はあなたの道を歩んでいくように努力してまいります。

愛と感謝にて。

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英

洗礼シーズン到来

主任司祭 晴佐久 昌英 神父

 今年も洗礼シーズンとなりました。今、大勢の方々が洗礼の準備をしていますし、教会もまた、この方々を受け入れる準備をしているところです。もっとも、一般の信者たちは、多摩教会において実際にはどのような過程で受洗者を迎え入れているのかを知らない人も多いと思いますので、ここでは主に、目に見える書類などを中心に説明しておきたいと思います。

 インターネットや人の紹介、チラシや看板など、様々な方法で多摩教会を知った人は、電話をかけて相談に来られたり、ミサやおやつの会、バザーやクリスマス会に参加するなどして、ある日、教会を初めて訪れる日がやって来ます。そこで受付係や信者、神父と出会い、出会った日からもう教会家族の一員として迎え入れられます。そのとき渡されるのが、「ようこそ多摩教会へ」(写真1)です。ここには神の愛が語られていて、教会についての説明、そして入門講座の案内などが載っています。
 そうして受付係や、ミサで出会った人、おやつの会で顔見知りになった仲間たちなどから勧められて入門講座に顔を出すと、入門係から「入門講座申込書」(写真2)が渡されますので、これに必要事項を書き込んで参加申し込みをします。講座は金、土、日と3つあってどれに参加してもいいのですが、とりあえずいずれかの曜日の講座に所属することになります。申し込んだ方には、教科書として「祈りの手帳」(写真3-1)「キリスト教とは何か」(写真3-2)「十字を切る」(写真3-3)が配られます。
 入門講座で福音を聞き、教会家族と教会体験を重ね、ついに洗礼を受けたいと思うようになったら、「洗礼志願書」(写真4)を入門係に提出します。提出期間は、原則として待降節第1主日から、四旬節の始まる2週間前までです。洗礼志願書には「洗礼志願動機書」(写真5)を添えて提出します。また、洗礼許可を受けるための司祭面談を司祭に直接申し込みます。この面談は志願書提出期間内に行っていただきます。もちろん、まだ迷っている人も面談して相談することが出来ます。
 面談で洗礼許可をもらった人は、その場で「洗礼許可証」(写真6)に司祭のサインをもらいます。本人がこれまでの人生の歩みを語り、信仰を告白し、洗礼を望み、司祭が教会としてそれを受け入れる瞬間は、とても感動的です。サインをもらった許可証は、速やかに入門係に提出します。入門係は「おめでとう!」と祝福します。これで晴れて洗礼志願者となる資格が与えられ、洗礼志願式に臨みます。正式に洗礼志願者となるのは、この洗礼志願式においてです。
 洗礼志願式は、四旬節第一主日のミサの中で行われます。式中、キリスト教信仰のまとめである「使徒信条」(写真7)が授与されます。また、さきに提出した洗礼許可証が再び配られますので、そこに自らの手で署名をします。洗礼の意思を正式に表すためです。こうして洗礼志願者となったものは、洗礼式までの間、特にミサを大切にし、祈りのうちに過ごしますが、同時に信者たちの祈りに包まれ、支えられて過ごします。四旬節の間、全世界の教会は洗礼志願者のために祈ります。
 いよいよ洗礼式。聖週間の頂点、「復活の聖なる徹夜祭」の中で、洗礼の儀がおこなわれます。神さまが、キリストにおいて、聖霊による洗礼を授けてくださいます。洗礼の記念として、「洗礼証明書」(写真8)が授与されます。これは、大切な記念として額に入れて飾ったりするものです。また、教会からのお祝いとして、本人のお名前と司祭の署名の入った聖書(写真9)が贈られます。洗礼の正式な記録は、「洗礼台帳」(写真10)に記されます。主任司祭が署名するこの台帳は、受洗教会にいつまでも保管されます。もっとも、真の記録は、天において永遠に刻まれているのですが。

 新年を迎え、今年もいよいよ、洗礼志願式が間近になって来ました。早々と洗礼面談を終えて晴れやかに志願式を待っている方たちもいますし、これから面談をする人や、洗礼自体をなお迷っている人などもいて、洗礼シーズンも本番を迎えようとしています。神さまが、一人ひとりの上に大いなる恵みを注いでくださるよう、共に祈りましょう。今年の洗礼志願書提出期限は、2月3日です。

連載コラム

連載コラム「スローガンの実現に向かって」第26回

荒れ野のオアシスとなる教会をめざして

鶴牧地区 北村 司郎

 今年の活動方針として、今回も「荒れ野のオアシス教会を目指して」を提案することになった。その話し合いの中で、神父様からカトリック新聞、昨年の11月11日号のある記事の紹介があった。その記事の内容を先ずは紹介させていただく。
 それは「皆が満たされるミサにするために」という表題で、一信徒の投稿記事である。ミサが終わって家路につく人の顔が、うつむき加減で暗い顔で帰って行かれる人が目立つようになってきた。多くの問題を抱えて、ミサに参加しても満たされ、癒されていない。そのことに教会は無関心であって、教会のそのような姿勢そのものに問題があるのではないだろうか。それは修道会の教会よりも、教区の教会の方が敷居を高くしている教会が多い気がする。そんな状況の中で、福音宣教のため主任神父様を中心に、信徒一体になって「荒れ野のオアシス」運動を展開されている教会もあるが、それはほんの一部の教会である。
 教会に来て満たされないで帰る人々に対しての責任は、司祭にだけあるのではなく私たち信徒全員の責任である。おおよそ以上のような内容であるが、ここに書かれた「荒れ野のオアシス教会」とは実は私たち多摩教会を言っているのではないか、と神父様は言われた。このような教会の一般的な状況であれば、私たちの今年の目標も続けることには意味がある、ということである。
 聖書の中には教会と訳された「エクレジア」という言葉は数回しかでてこない。この言葉の本来の意味は「集まり」だそうだ。神様によって呼び集められた人々の「集まり」である。その集まりの中で人は癒され、もう大丈夫、と感じられれば、明るい顔で家路につくことが出来るのであろう。それが教会の本来の姿である。即ち、本来教会はオアシスなのである。しかし、人が集まると、別方向へ歩きだすことも事実である。そのため、敷居の高い教会が出来上ってしまったのである。だから、オアシス教会にするためには、そこに集う人々が力を出し合ってオアシスを意識的に作ろうとしないとならないのである。
 教会の本来の機能を取り戻し、オアシスにするために、次のような提案をしたい。自分の持っているタレントを教会のために使ってみませんか。与えられるよりは与えてみませんか。その方が喜びも大きいはずです。今の多摩教会には皆さんの持っているタレントが必要です。少しずつ教会の仕事を分担すればもっと素晴らしい教会になるのだと思います。
 そして、オアシスに属していることを楽しもうではありませんか。そのようなオアシスには人々が集まってきます。

投稿記事

スモールクワイヤによるチャリティコンサートのお礼

イエスのカリタス修道女会多摩修道院 院長 シスター山口

 1月13日(日)10時のミサ後、イエスのカリタス修道女会スモールクワイヤのチャリティコンサートを皆様のご協力により、無事終了することができました。
 当日は遠距離からのお客様も含め大勢の方々がご参加くださり、歌を通して祈りを共にすることができました。
 またチャリティへのご協力も多大で武蔵野ダルクへまとまった金額の寄付ができるとスモールクワイヤのメンバーも喜んでいました。
 晴佐久神父様がじめ多摩教会の皆様のご協力に心から感謝申し上げます。又、当日ご奉仕下さった方々にも心から感謝いたします。有難うございました。
 来る3月10日(日)には、イエスのカリタス修道女会日本管区本部(杉並区)におきまして、午後1時30分より東日本大震災の被災者に思いを寄せる集いが行われます。お時間の許す方はそちらの方にも是非足をお運びください。
 詳細はイエスのカリタス修道女会ホームページスモールクワイヤコンサート出演予定をご覧ください。

洗礼のあと

 さわやかな朝を迎えました。そして、受洗後の初めてのミサヘ。
 教会へ行く途中は桜が満開。反対側には真っ白な花や黄色の花がたくさん咲いていました。とてもきれいでした。いつもと同じ花のはずが、見たことのない美しさ。これは本当に晴佐久神父様のおっしゃっていた天国へのウェイティングルームに入ったのかも・・忘れられないステキな日になりました。
 入門講座の終わりに神父様がおっしゃっていたことを思い出しました。「洗礼後には何かが変わります。すばらしいことがたくさん待っています」。何気なく聞いていて、「そんなに変わる!?」と思っていましたが、不思議なくらい心が穏やかになっていました。
 ずっと前にカトリックに出会いました。「いつか洗礼を受けられたらよいなあ」と思い続けていました。昨年3月、いろいろな障害が消えカトリック多摩教会へ。ようやく今年の復活前夜祭、神父様にお水をかけていただきました。ミサの中で洗礼名が聞こえたときは、これで本当に神様に通じたと・・・とても感動しました。
 晴佐久神父様には心に残る言葉をたくさんいただきました。入門係の方々や一緒に勉強した方々にはたくさんお世話になりました。皆様に心より感謝申し上げます。
 そして、カトリック多摩教会の皆様、これからもどうぞよろしくお願いいたします。

ここから始まる

宮本 欄(仮名)

 洗礼を受け、今、とても清々しい気持ちです。洗礼後、何かが変わりました。復活祭と共に、本当に私自身も新たに生まれた気分です。
 不思議と洗礼後、私は自分でも変わったように思えます。洗礼前は、神様に対しての信頼が揺らぐ時期が度々でしたが、今はもう、神様に身を委ねて安心して前に進んでいる気がするのです。
 私の信仰生活は始まったばかりで、まだ生まれたばかりです。ここからが始まりであり、これからを歩んでいくに従い、イエス様の教えを日々噛みしめていこうと思います。これから、イエス様が私たちに伝えようとしてくださったことを、より知りたいです。
 母の受洗への希望、私の受洗への希望・・・。お互い自分たちの意思で受洗を希望し、今回偶然にも母娘、一緒に受洗することができました。
 しかし、これは、すべてが神様のお導きだと思っています。母と共に受洗できたこと、同時に新しく生まれたことに対し、今とても幸せを感じています。
 常に神様が手を差し伸べていてくださることを忘れずに、これから歩んでいきたいと思っています。

2012.4.7 洗礼をうけて

小島 美栄(仮名)

 厳かな洗礼式は、ろうそくの火の灯と、晴佐久神父よりお水をかけていただいた時の緊張が、今でも余韻として残っています。
 私は子どものころに教会の日曜学校に行っていましたが、その後はクリスマスの時に教会に行く程度でした。母や妹は熱心なカトリック信者です。
 たまたまインターネットで多摩教会に入門講座があることを知り、近いので行ってみました。晴佐久神父やシスターのお話を聞いていて、信仰心の薄かった自分でも洗礼を受けても大丈夫なのかなと思うようになりました。毎日の生活の中で、悩みや不安であったことがとてもちっぽけなことであり、救われるのだと知りました。
 毎週多摩教会に行って、一週間を振り返り、反省をし、また一週間のエネルギーをいただいて帰っています。

受洗によせて

香川 瞳(仮名)

 幼い頃から、祖母の影響で教会や神様について触れる機会がたびたびありましたが、私自身は教会に通ったことやカトリックの教えを受けることはありませんでした。18歳か19歳のとき、祖母に「瞳ちゃんも教会で神様の勉強をしたらどう?」と言われたことがきっかけで、今までちゃんと知ることのなかった神様の存在について考えるようになり、しばらくして母を誘って近くにあった多摩教会に通うようになりました。

 実際に教会に通い始めると、今までカトリックとほとんど関わりをもたずに生きてきたのに、不思議と聖書や神父様の話がとても身に染みて感じられ、すごく自然なことに思えてきて、なぜ自分は洗礼を受けず、神様を知ろうともせず、ここまできてしまったのかと、すごく後悔に似た気持ちすら持つようになり、せめてこれからの人生は、絶対神様と離れたくないと思うようになりました。ですから洗礼式が無事終わり、嬉しいという気持ちよりも、やっと神様に認められたという安心感の方が大きいように思います。
 まだ実社会での後遺症(?)のような考えに支配されそうになるときがありますが、もっと神様や教会のことを知りたいし、身近に感じたいし、かかわっていけたらと思っています。