放浪はおしまい(受洗者記念文集)

宮原 瑠奈(仮名)

 イエス様がすべての人に、この私にも、働きかけておられると体験してから、教会を訪ね歩くようになりました。
 カトリック、プロテスタントから、怪しい評判の教会、時には修道院まで、旅先でも説教に親しみ、コミュニティを味わいました。全世界の教会がすべての人を招いて説教ライブを聞かせてくださり、時には心のこもった手づくりの食事をすすめてくださるのは、なんと豊かなことでしょう。幼い頃から憧れていた仏教では、そのように常に開かれている場所を見つけることができませんでした。
 行く先々で、たくさんの方が私のために祈ってくださいました。落ち着ける教会に出合い、行脚が終わるように、洗礼に導かれますように、無用の傷を癒してくださいますようにと。愛と寛容を動詞で生きて示してくださった皆さま、ありがとうございました。
 それでも私は、すべての人にイエス様が働きかけておられるその上に、洗礼はどのような意味なのか、とずっと心にかかっていました。

 初めて多摩教会に来たのは昨年の秋、信仰の友の誘いを受けてのことでした。
 聖霊に満ちたミサ、二千年前の食卓が今ここにあることに感動しました。そして、神の呼びかけに「はい」と答えるのが洗礼であるとおっしゃる神父様に背中を押されるように、まるで以前から決まっていたことのように、洗礼のお恵みをいただきました。
 ただし、神父様からは「商品先渡し組」と言われていますので、あとから追いつきたいと思います。

 大好きな五島列島をご案内した友人と、洗礼の同級生になれたのも大きなお恵みでした。
 ルルドの井持浦教会に泊めていただき、帰りには長崎の本河内のルルドにも寄り、静かな時を過ごしました。その後でしたので、多摩教会守護の聖人がコルベ神父様であることにも特別のご縁を感じました。

 洗礼のあと、「♪だれでもキリストのうちにあるならその人は新しく造られた人♪」という歌が思い出されてなりませんでした。そして「見よ、すべてが新しくなりました」という感覚を味わっていました。
 これからキリストに従い「成人」を目指す道を示されたばかりの乳児です。どうぞよろしくお願いいたします。

神がその名を呼ぶ(文集:晴佐久神父巻頭言)

主任司祭 晴佐久 昌英 神父

 洗礼式の初めに、「呼名」という美しい儀式があります。
 司式司祭が受洗者一人ひとりの名を呼び、呼ばれた者が返事をして祭壇前に進み出る儀式です。
 救いを求めて必死に生きてきた一人の人が、「はい」と返事をし、堂々と立ち上がる瞬間は、まさに神の愛の勝利、キリストの救いの実現、聖霊の偉大なる働きを目の当たりにする、感動的な瞬間です。
 このとき名を呼んでいるのは、実は神ご自身ですから、返事も神に向かっています。
 「はい」という返事は「神よ、わたしはわたし自身を受け入れ、あなたの救いの御業を受け入れます」という返事であり、立ち上がって進み出るという行為は「神よ、わたしはあなたの愛を信じ、わたしのすべてをゆだねます」という信仰を表すしるしにほかなりません。

 今年の洗礼式で、この「呼名」をしながら、不覚にも涙してしまいました。
 それまで、一人ひとりからその半生を聞き、一人ひとりにひたすら福音を語ってきた一人の司祭にとって、お呼びする名前は、ただの名前ではないからです。それは、試練と苦難の半生の果てに多摩教会と出会って結ばれた「教会家族の一員の名前」であり、特別に神から選ばれて救いの秘跡に与かり、今まさに神の国の住人になろうとしている「聖なる神の子の名前」なのです。
 今回、どの名前を呼んでも「ああ、本当につらかったね」と思い、どの返事を聞いても「ああ、本当によかったね」と思い、幾度も声が詰まってしまいました。今、現実に神がその名を呼び、神への返事が聞けるのですから、感極まって当然、ということでしょう。そのとき、神ご自身こそが、深い喜びを感じておられるのではないでしょうか。

 今年の受洗者の感想文集をお届けします。
 一人ひとりが初めて教会を訪れた時の寂しそうな様子や、落ち込んだ表情を思い出すと、このような文集を出せることに、本当に喜びと誇りを感じます。
 どうぞ、神の救いの(わざ)を分かち合ってください。そして、だれもがこのような救いに招かれていること、わたしたちこそがその救いに招くものであるという思いを新たにしてください。

神様からの愛(受洗者記念文集)

光山 真理子(仮名)

 私が、多摩教会を初めて訪れたのは、4年前の春・・・。
 その日は、母の洗礼式の日でした。
 司式をされたのは、もちろん晴佐久神父様。

 以前から毎週末になると、母から教会や晴佐久神父様のことを聞かされていたのですが、この時の私はまだキリスト教というものにあまり「ピン! 」と来なくて、何が何やらよくわからず、ただ相づちを打つだけしかできませんでした。
 母の洗礼式の日、ウワサ(?!)の晴佐久神父様とお会いし、その説教の素晴らしさや、洗礼式の美しさなど、見るものすべてにとても感動し、衝撃を受けたことを、今でも鮮明に覚えています。水をかけられる時の母の顔は、緊張していながらも「やっと救われた!! 」という安堵の表情であると同時に、希望に満ちあふれたような表情にも見えました。
 そんな母の姿を見て、「いつの日か、私も洗礼を受ける日が来るのかなぁー? その時は、私も晴佐久神父様に司式をしていただけたらいいのになぁー」・・・と思うようになりました。
 そして、この後・・・母に付き添って土曜日の夜ミサに時々(あずか)らせていただき、祝福をいただけることに喜びを感じるようになりました。しかし、三日坊主な私は毎週ミサに通うことはできず、いつしか教会から離れてしまいました。
 2年前の夏・・・。母に勧められて信徒館で行われたパーティに参加し、そこで出会った信者さん達の優しさに触れ、気が付くと、いつの間にか教会へ行くのが楽しくなり、入門講座や、おやつの会などに自ら参加するほどまでになりました。
 しかし、昨年の春。またしても私は、教会から一時離れてしまいました。人間関係に悩み、すれ違ってしまったことが原因でした。
 子どもの頃、ずっといじめられていて友達がいなかった私は、人と接するということに、とても臆病になり、人とも自分とも正面から向き合うことができず、自分を守りすぎてしまっていつも本音を言えず、家族や周囲の人に助けを求めることができずにいました。そのため、コミュニケーションの取り方がよくわからず、誤解やすれ違いがたびたび起こるようになってしまいました。
 最初は、出られていたミサも、気がつくと出ることができなくなり、聖堂に入ることも、エントランスに入ることも、信徒館に流れるアナウンスでのミサすらも怖くなってしまったのです・・・。
 ミサに出ている時に、過去のつらかったことや、淋しかった思いが、(父や祖父母を次々に亡くしてしまったことなど・・・)フラッシュバックしてしまうようになり、目の前にいくつものフィルターのようなものが出てきて、胸がギュッ!と締めつけられて呼吸がしづらく、パニック状態になってしまうようになりました。
 毎晩のように泣きながら眠ったり、早朝に仕事に行くため、駅に向かって歩きながらも涙を流してばかりいました。
 それでも神様を信じていた私は、「これ以上悲しい思いはしたくない。何とかしなきゃ!! 」と思い、昨年のクリスマスパーティの日に、神父様に「私、洗礼を受けます」と思い切って伝えました。その宣言から、少しずつ周囲の皆とも和解をし、ずっと暗闇の中にいた私に光が射し始めました。
 受洗を決意してからの私は、今まで言いたくても言えなかったこと、やりたくても後回しにしてしまったこと、素直に言えなくて心に残してしまった言葉、伝えられなかった心の声・・・。
 そんな普段やり過ごしてしまうすべてのこと全部ひっくるめて「今を大切に生きよう!!! 」って思うようになりました。少しずつだけど、ポジティブになることで、気持ちに少しゆとりが持てるようになりました。

——そして、2013年春——。
 念願だった晴佐久神父様の司式のもとで、洗礼に与ることができました!!!
 水をかけられた瞬間・・・冷たいと感じるよりも、「やっと救われる!!! 神様ありがとう!!! 」と思う気持ちの方が大きかったです。
 洗礼名のマリア・クララは、自分で考えたのですが・・・、大好きな聖母マリア様と若くして教会のために尽くし続けたアッシジのクララを合わせて名付けました。それに、「アルプスの少女ハイジ」のクララからも付けています。足の不自由なクララは、ハイジやおじいさんなど、周囲の愛に救われ、いつしか自らの足で立ち上がり歩けるようになるんです!! 私も自分の足でしっかり大地に立ち、沢山の人に感謝しようと思い選びました。

 私に関わってくださっているすべての人達
 私のことを、いつも支えてくださっている人達
 離れていても見守っていてくれる人達

 私という人間に出会ってくれたすべての人達に
 心から感謝しています。

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英「世界がガラリと変わる」

世界がガラリと変わる

主任司祭 晴佐久 昌英

 「うれしい! 天にも上る思い!」
 この試練の多い人生において、たとえ一度でもそんなひとことを口にできる人は、なんと幸いなことでしょうか。
 そんな幸いなひとことが、そう言った本人の言葉として実際に載っている小冊子があります。ほかならぬ、カトリック多摩教会2013年の受洗者記念文集です。このたび、多摩カトリックニューズ別冊としてお配りいたしましたので、ぜひお読みください。今春受洗した大勢の新しい教会家族の、それぞれの受洗の感想が載っています。いずれもまごころから溢れる真実の言葉で書かれた、喜びと感謝に満ちた内容で、読んでいて本当にうれしくなるし、感動するし、励まされます。
 冒頭のひとことは、その中のひとりの受洗者の感想で、喜びに舞いあがっている様子に思わず顔がほころびますが、これはたまたまアイウエオ順に並んだ文集の、最初の人の文章から引用したというだけで、他の人たちの感想も一様にそのような喜びと感動に満ちています。それまで苦しみを背負い、虚無感にとらわれていた人が福音に出会って救われ、時に劇的に生まれ変わっていく様子は、まさに驚異的と言っていいほどです。まあ、いいから読んでみてください。ここに、ほんの一部を抜粋してみます。

 「私の世界はガラリと変わりました。すべてを神様の御手に委ねて、軽くなって、こんなにあたたかくて、今本当に幸せです」
 「わたしは本当に変わりました。ミサに出る度に心身ともにどんどん楽になっていきました。『神は愛であり、私たちはその愛によって望まれて生まれ、その愛に救われます』ということを知った時、『これだ!』と思いました。これまで、『生まれたくなかった』と、自分の誕生や存在に嫌悪感を抱いていたけれど、ようやく自分の誕生を認めることができました」
 「今僕は、自分の将来が楽しみで仕方ありません。これからどんなお恵みを与えていただけるのでしょうか。本当に楽しみです。あのパン・・・今まで食べたどの食べ物よりも、おいしかったです。本当においしかったです」
 「『これ以上悲しい思いはしたくない。何とかしなきゃ!』と思い、『私、洗礼をうけます』と思い切って伝えました。その宣言から、少しづつ周囲の皆とも和解をし、ずっと暗闇の中にいた私に光が射し始めました」
 「導かれて多摩教会のミサにあずかりました。神様の言葉が直接私の魂に響き、その後も数日かけて愛と喜びが全身全霊に広がってきました。神様に愛されていることを初めて心と体と魂で感じました。今までの数十年は、洗礼に向けての準備期間で、すべては神さまのご計画だったと腑に落ちました」
 「ミサや入門講座で度々、『私たちはすでに許されている、だからもう大丈夫ですよ』とおっしゃっていました。私はその言葉にどれだけ救われたか・・・その言葉を聞いた時、『私、クリスチャンになる!』と決心がつきました。洗礼式を終えて、私は神の子となり今、自分にこう言い聞かせています。『もう大丈夫、私は許されている、だから生きていてもいいの・・・』と」

 これを神の業といわずしてなんというべきでしょうか。
 この文集を作ったのは、そんな神の業を教会家族で分かち合うため、そして多くの人にも伝えるためです。ぜひこれを活用してください。本人に「読んだよ」と声をかけ、親しくしてください。知り合いに「読んでよ」と渡して、福音を伝える道具にしてください。キリストの教会を知り、「世界がガラリと変わる」人が、身近に大勢いるはずです。
 受洗者の証言ほど、説得力のあるものはありません。文集の最後の人はこう書いています。
 「神様は、私が幸せになる機会を逃しても、私を一度も見捨てることなく何度も呼びかけて、導いて、招き入れて下さいました。私の罪を許し『あなたは私の目に貴い』と言ってくださいます。天の父は、御ひとり子イエス・キリストによって、全ての人を無条件の愛の内に招き入れて下さる事を、証しします」

連載コラム:「スローガンの実現に向かって」第31回

連載コラム「スローガンの実現に向かって」第31回
「入門講座を垣間見て」

諏訪・永山・聖ヶ丘地区 青柳 敏一

 受付係を兼ねて入門講座に参加させてもらっていると、いろいろ思うことがあります。例えばその参加メンバーを見ると、純粋にカトリックをめざしている方よりも、なぜかプロテスタントの方の参加が時として目立つ場合があります。
 カトリックだ、プロテスタントだ、・・・と言っても、同じキリスト教で「父と子と聖霊の御名による」三位一体の神を信じている仲間同士なので、一同に会しても何ら違和感もなく、プロテスタントの方も自然に溶け込んでいるのが目に見えるようです。
 入門講座終了後の懇親会でもお互いの教会のことを話題に、皆さん結構楽しんでいる様子。当然のことですが、皆さんは晴佐久神父様のご講話を聴きにこられていますが、帰られる時は、感激され以後、固定客のように毎週見える方も多くいらっしゃいます。

 お話によると、所属の教会では日曜日の礼拝(カトリックのミサにあたります)と週1〜2回の勉強会の日以外は教会の扉は閉まったままとのこと。この点については、すべてではないと思いますが、休みなく聖堂を解放しているカトリック教会の歴史というのか伝統の大きさに改めて感謝。

 神父様が力強く 「十字を切る」ことに皆さん最初は躊躇されていましたが、何回か通われると「十字を切る」ことに違和感もなくなるようで堂々と自ら実践され、所属教会の礼拝の場でうっかり十字を切ってしまわないかと気にされるくらいです。「十字を切る」ということがこんなにも素晴らしいことかとあらためて実感させられました。
 もしもうっかり十字を切ってしまい、それを牧師さんが見たらどういうことになるのでしょうか。一度その場面に立ち会ってみたい気もしますが、これはちょっと余計でした。

 多摩教会の入門講座がこれほどまでに好評なのは、もちろん晴佐久神父様の存在あってのことですが、それを支える入門係の方の「おもてなし」には頭が下がります。初めて教会にお見えになる方や、まだ教会に不慣れな方にとっては、とても心強い味方になっています。おかげで皆さん安心されて講座に参加されています。まさしく、ここは心のオアシスそのものではないでしょうか。

 晴佐久神父様が常日頃お話になり、かつ実践されているエキュメニズム(教会一致運動)が多摩教会の入門講座で実現しているのは当然のことと実感しました。