洗礼(受洗者記念文集)

有働 洋平(仮名)

 ある日、蟻は考えた。
 教会へ行こう。教会へ行ってミサにあずかろう。

 で、その日曜日に、バスから、大きな看板の見えるカトリック多摩教会へ行った。乞田川沿いの桜の美しく咲く頃であった。
 蟻が、ゴッタ返す人間が行き交う教会の前に立ったのは、10時ちょっと前。踏みつぶされないように苦心しながら、聖堂にほとんどよじ登るようにして上がって、「聖書と典礼」を受け付けでもらってから、祭壇の左側に座った。さすがに、気がひけて前にドーンと座る勇気がなかったから。

 ミサが始まって聖歌を歌い、神父様のお説教を聴き、聴いている内に頭が混乱してきてよくわからなかったが、神父様が説教壇の上に指を立てて
 「あなたは救われている!」
 「神はあなたを愛している!」
 と、力強く陽気に明るく宣言されたので、メモを取っておいた。

 蟻は後日、蟻なりの道をたどって、洗礼を受ける決意をした。
 どんな道をたどり、どんな思いをおい、どんな苦しみの中を歩かなければならなかったかは、言うまい。
 ただ、蟻は幸福であった。

 蟻は、洗礼式を5日後に控え、ボールペンを持って、洗礼式の後に出す作文の構想を練っている。
 彼は、洗礼式に行き着くであろうか。

 ハレルヤ25人の友、
 ハレルヤ入門コースの皆さん。

生まれ直す(受洗者記念文集)

桃井 尚美(仮名)

 ついに受洗しました。
 ここまで導いてくださったことに、心から感謝いたします。
 準備期間中も十分に幸せでしたが、正式に教会家族に迎え入れていただけたこと、それがこんなにもあたたかく安心で、幸せなことだとは・・・。

 昨年の末に教会へ飛び込み、約3カ月。思えばあっという間でしたが、その短い期間で私の世界はガラリと変わりました。
 以前までは、どんなこともどうにかして前向きに捉えようと努めてきましたが、今では「すべては神様の御心。天国へとつながっている」と思うだけで少しも辛くありません。「御心が行われますように」、心からそう思ったときに初めて、自分がたくさんのものを背負い込んでいたことに気付きました。

 すべてを神様の御手に委ねて、軽くなって、こんなにあたたかくて、今、本当に幸せです。
 これから神様のそばを離れることなく歩んで行くことができますように。

神に感謝(受洗者記念文集)

国広 星児(仮名)

 宗教を信じない自分が、まさかキリスト教に入信するとは思ってもいませんでした。でも、こうして洗礼を受けるまでのプロセスが神の御業(みわざ)だと感銘しました。

 昔から自分の力ではどうしても解決できない問題を抱えていて、毎日を憂うつな気分で過ごしていたら、本屋で晴佐久神父の「十字を切る」に出会いました。この本を読んでとても心に響くものがあって、当時絶望だらけの自分にわずかに希望を見出すことができました。
 また、この本をきっかけにキリスト教に興味を持ち、カトリック多摩教会へ行きたいと思い、電話をしたら12月24日のクリスマスイブに来てくれと神父に言われ、これもなにかのご縁(神の導き)だったのかもしれません。

 教会は怖い場所で、下手なことを言ったらポアされるのではないかと、恐る恐る訪ねました。
 実際に来てみたら、そんなのは杞憂(きゆう)であって、教会の皆さんが温かく親切に迎えてくれて、本当の家族のように接してくれました。それからも毎週教会へ通うようになり、来るたびに泊まり、食事し、同世代の仲間と遊んでいたら、カトリック多摩教会の「与太者」とまで呼ばれるようになりました。

 こんな「与太者」と呼ばれている自分ですが、洗礼式で額に水をかけられた瞬間に何かが変わり、本当に生まれ変わった気分です。
 この日を人生のターニングポイントにして、自分の中の問題を解決していきたいです。

 これからも多摩教会へ通いたいのですが、残念ながら仕事の都合で遠くに引っ越すことになりました。
 この教会にいたのは3カ月間の短い期間でしたけれど、晴佐久神父、与太者たち、教会の皆さんの絆をこれからも大切にしていきたいです。
 また、皆さんに出会わせてくれた神に感謝。

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英「仲間たちと、出発しましょう!」

仲間たちと、出発しましょう!

主任司祭 晴佐久 昌英

 日本聖公会神戸教区の中高生大会に、講師として招かれて、岡山へ行ってきました。
 山間の施設で、70名ほどの中高生と30名ほどのリーダー、OB、司祭たちが和気あいあいと過ごしていて、ちょっとうらやましかったです。三泊四日のプログラムはすべて中高生自身に任されているということで、参加者たちの顔の輝きを見ても、これがいかに充実した集いであるかは、すぐに分かりました。
 この神戸教区の中高生大会は、日本聖公会内でも有名な大会だそうで、今年でちょうど50周年になるということです。節目の年を再スタートの年と位置付け、記念講演として、晴佐久神父が呼ばれたというわけです。大会二日目の講演会には、講演だけ聞きに来た信者さんも150名ほどいて、大変な熱気でした。
 大会テーマは、ずばり「継承」。講演でも、教会が受け継いできた大切な福音を、次の世代につないでいくことの大切さについてお話ししました。特に、中高生が仲間と共に信仰の喜びを知り、教会の尊さに目覚めることの重要性は、どれだけ強調してもしすぎることはありません。講演会で、「みんなで継承していこう!」と呼びかけながら、それこそ言うなれば「継承教会」であるカトリック教会こそ、このような大会を開く必要があるのになと、歯がゆい思いをしたものです。胸に伝統的な十字架の模様が入り、肩口に「継承」と書かれている、全員おそろいの黄色いTシャツを着た、彼らのはしゃいでいる姿が忘れられません。

 思えば私自身が、いわば中高生大会ともいうべき、多摩地区の中高生錬成会で育てられた司祭ですし、当時の中高生で、現在は教会の中核で活躍している信徒も多くいます。子どもでも大人でもない中高生時代に信仰と真剣に向き合うことはかけがえのない体験であり、生涯の信仰を支える力の源となることを、みんな、自ら体験してきたはずです。あのころの大人たちに、どれだけ援助され、育ててもらったことか。そのころの友達に、どれだけ支えられ、今なお助け合っていることか。
 小学生までは何とか教会に連れていけても、中高生になると教会から離れてしまうのが普通である現状の中で、絶滅危惧種を守るように中高生を大切にし、彼らと教会の関わりを真剣に考えることは、未来の教会を守り、考えることそのものです。

 今年は、多摩教会においても、何とか中高生会を活気づけ、中高生会再興元年にしようと、春には中高生ディズニーランド無料ご招待という、教会史上初の企画で大盤振る舞いをして景気づけ、夏には多摩教会としての中高生合宿を、本当に久しぶりに実現させました。合宿のミサには、合宿地のあきるの教会の信者さんも参加して、多摩教会の中高生のために差し入れをくださり、一緒に祈ってくださいましたが、「中高生がいるなんて、本当にうらやましい」と、つくづく言っておられました。
 合宿のおかげで、これからも、定期的なお泊り会をしていくことが決まりましたし、クリスマスには、中高生自身の企画で盛り上がってもらいたいと願っています。中高生たちが、教会って本当に素晴らしい集いだ、天国の始まりだと体感してもらえるように、教会をあげて応援していきましょう。
 何よりも、中高生の皆さん! 友達いっぱい誘って、教会という小さな天国で、たくさんの教会体験、感動体験をしてください。
 聖公会の中高生大会でも、中高生たちにこうお話をしました。
 「皆さんを選んだのは、神様です。神様が選んだのですから、何の心配もありません。さあ、神さまが出会わせてくださった仲間たちと、出発しましょう!」

連載コラム:「私を支えてくれるもの」

連載コラム「スローガンの実現に向かって」第32回
「私を支えてくれるもの」

愛宕・乞田・鹿島・松が谷・和田地区 石濱 裕絵

 まず初めに、私の信仰を支えてくれる言葉を紹介します。
 「信者であっても、信者でなくても、好きでも、嫌いでも、みんな神さまに愛されている子供だよ」。
 この言葉は、お世話になっているイエズス会の神父様から教わった言葉です。
 今までの私は、苦手だなと思う人がいるとその人を遠ざけて、なるべく関わらないようにしていました。でも、イエスさまが教えてくれた祈りの中には、いつも「私たち」という言葉がありました。この言葉に支えられて私もその人も、神さまの子供として同じ存在であると思えるようになったのです。

 2010年の復活祭に多摩教会で受洗して3年の月日が過ぎましたが、そのころと比べて自分の中で変わったな、と思うところが2つあります。
 そのひとつがカフェ・オアシスの店長を引き受けたことです。
 もともと自分たちの代のメンバー内で「新しい人たちで何か奉仕活動ができないか」と思い立ったのが始まりでした。最初は小さな集まりでしたが、教会の正式な活動と認められてからは、さまざまな場面でみなさんに奉仕できるようになりました。
 私は、もともと先頭を切って物事を進めるタイプではなく、人と接するのも苦手だったりなど、店長を務めるにあたって不安なところもあったのですが、周りのメンバーに助けてもらいながら続けられています。
 また、カフェ・オアシスの活動を通して、これまで知り合えなかった方たちとも関わりが持てました。いつも多摩教会に来る人にはカフェ・オアシスの活動は、大分認知してもらえるようになりましたが、もっといろいろな方に知ってもらいたいです。
 例えば、初めて教会に来た人が気楽に入れたり、仲の良い友達同士でおしゃべりをしたり、コーヒーを飲みながら知らない人同士が知り合ったり、息抜きにひとりで飲んだり・・・など、訪れる人たちがホッと和めるオアシスのような存在になれたら嬉しいです。

 また、もうひとつ自分で変われたなと思うところは、今年の復活祭で、ある方の代親をさせていただいたことです。
 代親になれることはお恵みですが、今までの私ならきっとプレッシャーに負けて断ってしまったかもしれません。でも信仰という大きなお恵みに育ててもらい、カフェ・オアシスでの経験を通して成長ができ、引き受けることができました。
 その方と知り合うことができて、これからまた一緒に成長していけることをとても幸せに思います。
 3年前の受洗記念文集に、「私の代親をしてくれた友人のように心に大きな柱がある人になれたら嬉しい」と書いたことを覚えています。その友人とも同じ信仰を分かち合える仲間になれたことで、より強い絆を感じられるようになりました。

 まだまだ神さまの優しさに甘えてばかりの弱い私ですが、言葉や態度には出さなくても、見守っていてくれる人達に感謝の気持ちを忘れず、今までの自分より、あと半歩・・・あと半歩・・・と進みながら、頑張っていきたいと思います。
 そしてどんなときも、どんな私でも神さまが一緒にいてくださることに安心して、歩いていきたいです。

神様の御業に導かれて(受洗者記念文集)

沖 温子(仮名)

 昨年の春のことから始まりました。

 たまたま同僚と、食事をして帰ることになりました。その食事中の会話の一節に、私は瞬時に反応してしまいました。
 それは、「神様が見ていますよ」という言葉でした。聞けばこの同僚、いつの日にか洗礼を受けたいと願う求道者でした。それもカトリック。私は洗礼を勧めましたが、私自身はまだ洗礼を受けていませんでした。
 振り返れば、母もカトリック信者であり、私自身プロテスタントの教会に通った経験もありました。しかし、いつの頃からか信仰から離れてしまっていました。
 その間、母はいつでも信仰に立ち返れるようにと祈ってくれていました。祈りと共に、さまざまなモーションがあり、その中でも「晴佐久神父さまのお話を聴いたら、教会や神さまのことが、また大好きになると思うから、まずはその方のお話を聴いて、判断して欲しい」と多摩教会ということも告げたそうです。
 けれども、私は頑なにキッパリ断り、二度と教会の話はしないで欲しいとまで言ったそうです。一切振り向きもせず。
 そんなことが何年も続いていたのに、そんな私が職場の同僚に洗礼を勧めるなんて!また、私が多摩教会で受洗するなんて!・・・今でも不思議に思います。
 この時から私たちは同僚ではなく、同じ道を歩む友人となり、それから1年もしないうちに、神様は私を教会へと導くご計画を実行されました。

 職場のことで悩み疲れ、生きる気力さえなくすくらい、つらく苦しい日が続き、そういう日々から脱出したいという思いでいた時期に、「いやしのためのミサ『お帰りミサ』」というタイトルを目にする機会があり、()やされたいと参加しました。
 そこで、あたたか〜いものに包まれているような優しいものを感じ、じわ〜っと心があつくなり涙が止まらず、その時の説教で「私があなたを選んだ」という言葉しか覚えていませんでした。
 心地良いときをまた過ごせたらと思いながら、会場を後にしようとしたとき、「たたきなさい。そうすれば開かれる」と私の中で響き、勇気を出して晴佐久神父さまと話す行列に並び、多摩教会へと導かれ、ミサに集うようになりました。
 その一連の出来事を一番驚いていたのが母でした。

 洗礼式まで、いくつかの段階があり、戸惑うこともありましたが、「何よりも、教会をわが家に迎え入れられることなんだ」という気持ちで洗礼に臨んで欲しい、というお話が受洗準備期間中にあり、安心してここに居ていいんだと大変嬉しくなり、多摩教会に導いていただいたことに感謝しています。
 こうして無事に洗礼の秘跡に(あずか)り、安堵と感謝の気持ちでいっぱいです。
 これから先、さまざまな苦難や困難があっても、神様のお導きを信じて、私にできることを一つひとつ丁寧に積み重ねていこうと思っています。

 最後になりましたが、晴佐久神父さま、入門係の方々、代母さん、そして多摩教会の皆さまに、心からの感謝を申し上げます。
 そして、今までずっと私のことを祈ってくれ、これからもずっと私のことを祈ってくれるであろう母へ、感謝の気持ちを伝えたいと思います。

信じる(受洗者記念文集)

坂本 宏喜

 教会に通い続けて約1年間、ず〜っと気になっていたことがありました。
 それは、洗礼を受けている信者の人たちしかもらえないもの。……そう!「パン」です。あのパンの味をどうしても知りたかったのです(笑)。
 洗礼式当日、「キリストの体……」という言葉と共に神父様からパンをいただいて食べた瞬間、受洗をした実感が涌いてきました。

 さて、僕がこの教会に来ることになった理由ですが、実は自分でもはっきり分かりません。最初に教会へ行った時の記憶もなく、気付いたら毎週通っていました。
 通い始めた最初の方は、神父様のお説教が子守唄のように聞こえ熟睡していました。すっごく気持ちよかったことを覚えています。
 すると、数カ月後に神父様から「今日も眠そうだったね〜首がコクコクなっていておもしろかったよ」と言われました。寝ていることがバレないように、いつも後ろの方に座っていたのですけどね……。さすが神父様!

 神父様とこの教会から一番学んだことは、「信じる」ことの大切さです。
 神父様は毎週何時間もお話されていますが、最終的に言っていることはいつも同じで、とてもシンプルです。「神様はあなたを愛し、守ってくださる。それを信じなさい。」ただそれだけのことです。
 残念ながら神様の愛は、目に映る「形」としては見えません。だから、それを信じきることができない人はたくさんいます。でも、その愛を信じきることができた人は、不安や恐怖が消え、いろいろな見えないものに希望を持つことができるのだと感じました。

 例えば、「自分の可能性」です。
 人ってとてもネガティブな生き物だと思います。だから、何かを始めるにしても、「どうせ自分なんかには無理だ。自分にはそんなポテンシャルはない。どうせ、どうせ……」ってなってしまうことが多いです。
 でも、目に見えない神の愛を信じられる人は、同じく目に見えない自分の可能性を容易に信じられるようになります。これ、僕のことです(笑)。

 他には、「将来の自分」なんかも目には見えず、不安な人も多いのではないでしょうか。
 不況の影響もあり、仕事に就くことが難しい時代です。ちゃんとした仕事を見つけられるか、または今やっている仕事がこのまま続けられるのかなど本当に不安な人が多い気がします。
 でも、大丈夫。だって神様がずっと見守ってくれているのだから。

 今僕は、自分の将来が楽しみで仕方ありません。これからどんなお恵みを与えていただけるのでしょうか。本当に楽しみです。
 「信じることを本当の意味で知った人間は強いよ」そう言ってくださった神父様、心から感謝しています。

 では最後に、始めに書いた僕の素朴な疑問、「パンの味」の答えを書いておきます。
 あのパン・・・今まで食べたどの食べ物よりも、おいしかったです。本当においしかったです。