「あなたは必ず救われる」-晴佐久神父、東京新聞・中日新聞に寄稿(「宗教の普遍性」)

晴佐久神父
東京新聞・中日新聞に寄稿
「あなたは必ず救われる」
-「宗教の普遍性」(上)・(下)-

 晴佐久昌英神父の寄稿文、「『宗教の普遍性』(上)=すべての人は救われる、分け隔てなく愛す」が、3月15日(土)付の東京新聞および中日新聞に、また「『宗教の普遍性』(下)=すべての人を救う宗教、共感、共生する道へ」が3月22日(土)付の同紙にそれぞれ掲載されました。

 晴佐久神父の説教を掲載するホームページ「福音の村」で、東京新聞を発行する中日新聞社の許可を得て、転載しております。

 以下、それぞれのタイトルをクリックしていただくと、「福音の村」内の該当ページにジャンプします。
ぜひご一読ください。

(PDFファイルでご覧になれない方は、JPEGファイルでご覧ください。)

※「宗教の普遍性」(上)- 「すべての人は救われる:分け隔てなく愛す
  
〈 PDFファイル 〉〈 JPEGファイル 〉
   
(中日新聞・東京新聞 2014年3月15日付)

※「宗教の普遍性」(下)- 「すべての人を救う宗教:共感、共生する道へ
  
〈 PDFファイル 〉〈 JPEGファイル 〉
   
(中日新聞・東京新聞 2014年3月22日付)

 
 

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英「喜びの四旬節」

喜びの四旬節

主任司祭 晴佐久 昌英

 教皇フランシスコの使徒的勧告「福音の喜び」の冒頭部分(6)に、次のようなユニークな表現があって、思わずニヤリとしてしまいました。
 「復活祭なしで四旬節の節制をするように振舞うキリスト者がいます」。
 確かに、復活祭なしの四旬節ほど滑稽なものはありません。四旬節はあくまでも復活祭の準備期間なのであって、復活の喜びへの希望に支えられて過ごす、恵みの時だからです。
 しかし、実際には、救いの喜びを知らずに暗い顔で信仰生活を送る人が少なからずいるのが事実です。自らの罪を呪い、自らの滅びを恐れ、自らを責め続ける人たちです。それにはそれぞれのつらい事情があってのことでしょうから、一概に本人のせいだとも言えませんが、仮にも洗礼の秘跡を授かったものとして、まずは復活という栄光の輝きをしっかり見つめて、キリスト者においてはすでに復活が始まっているのだという、誇りと喜びを取り戻してほしいのです。
 フランシスコ教皇は、続けて次のように言っています。
 「もちろん、深刻な困難のために悲しみに落ち込む人々がいることを私は理解しています。しかし、たとえ最悪の心配ごとを抱えていても、心に秘められた確かな自信として、ほんの少しずつでもいいから、信仰の喜びを目覚め始めさせなければなりません」
 四旬節は、信仰の喜びに目覚め、福音の喜びを再発見するときなのです。

 「復活祭なしの四旬節」のようなキリスト者は、おそらくは「復活祭なしの四旬節」のような教会によって育てられたのでしょう。復活の喜びよりも十字架の苦しみに焦点を合わせ、復活による救いよりも罪と裁きを強調する教会です。
 まさにそのような罪と裁きの律法主義の桎梏から、すべての人類を解放したのが主キリストの死と復活であったはずです。そうして「もはや死は滅ぼされた、我々は罪も死も恐れない、まことに主は復活された、アレルヤ!」というのがキリスト教の出発点であったはずなのに、いつのまにか、罪に苦しみ、裁きを恐れる旧約時代に逆戻り、というような教えや信仰が存在するのはどうしたことでしょうか。
 理由はただ一つ、本当の意味で、主の復活を信じていないからです。
 復活の主を信じ、復活の主と共にいる人が、それほどまでに罪を強調するはずはありません。逆に言えば、復活の主に出会った喜びを知らない人ほど、罪を強調するのです。
 まずは、「主は復活した」という福音の原点を、信じてください。
 弟子たちの証言を、教会の生きた証しを、ミサにおける主の現存を、信じてください。
 復活の主に出会った人、その証言を信じた信者たちは、一つになってすべてのものを共有し、「喜び」と真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたと使徒言行録にあります。(2・44‐47参照)
 そのような喜びと一致があったからこそ、信者たちは「民衆全体から好意を寄せられ」たのであり、「こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされた」のです。

 2014年の四旬節が始まりました。復活の喜びを新たにする、恵みのときです。
 四旬節第一主日の洗礼志願式では、38名の求道者が洗礼志願者となりました。まさに主は、「救われる人々を日々仲間に加え一つにされ」ています。カトリック多摩教会は、初代教会のような喜びに満たされている教会なのです。それはすなわち、主の復活を信じる仲間たちの教会である、ということです。そうでなければ、だれが仲間に加わりたいと思うでしょうか。
 洗礼はイエスの死と復活に与かることであり、やがて天に召されるときの真の復活の先取りでもあります。その意味では、人生は、天における復活祭を準備する四旬節、それも喜びの四旬節なのです。真の復活祭を待ち望みつつ、生涯キリスト者として、使徒言行録のペトロのように喜びと情熱をもって、主の復活を宣言していきましょう。
 「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは今、このことを見聞きしているのです」(使徒言行録2・32‐33)

連載コラム:「6日+23時間はこの1時間のために」

連載コラム「スローガンの実現に向かって」第39回
「6日+23時間はこの1時間のために」

諏訪・永山地区 浜野 美穂

 皆さん、こんにちは。私は2010年4月4日に多摩教会で洗礼を授かりました。私たちが「晴佐久1期生」と呼ばれていることをあとで知りました。受洗までの道のりは感想文集に書きましたのでここでは述べませんが、とにかく「導かれた」としか言いようのない不思議な経過でした。偶然に見える出来事の偶然に見える積み重ね……しかしそれこそ神さまの計らい、必然だったのだと感じています。
 受洗してからもうすぐ4年になります。人間の恋愛モードは脳内ホルモンの分泌の仕組みにより3年が限度だそうですが、幸いに信仰の喜びはますます新鮮です。人生の半ばを過ぎて初めて出会ったカトリック、まだまだ知らないことばかりで、受洗後も入門講座に出続けています。できる時には真生会館の森司教さまの講座に出たり、いろいろな修道会の黙想会に参加したりしています。ご縁があってカトリック学校で2年間働くことができたのは人生の大切な思い出となるでしょう。

 以前の私も含めて多くの日本人は「特定の宗教に入ること」イコール「それ以外の宗教を否定すること」と思い込んでいて、だから家に仏壇がありお寺にお墓があり、初詣に神社に行き受験の時はお守りをいただき、結婚式は教会で……という生活を「クリスチャンになったら、すべて改めなければいけない。けれどそれはできない」と思いながら、何となく続けているのではないでしょうか。
 しかし洗礼とは、そのように服を脱いだり着たりするような生活様式のことではなく、自分の存在そのものの本質に気づくことだ、というのが私の実感です。神は愛であり、私は神に愛されてこの世に生まれ、「今日この時も生かされている」と知って感じる時に、心から喜びが湧いてきます。40代後半で私がやっと出会ったイエスさまの眼差しは、12年の長血を患ってイエスさまの服に触れた女性を見つめた、その愛の眼差しでした。そして神さまが私たちに望んでおられるのは「互いに愛しあいなさい」ということです。細かいことはどうでもよくなってきます。

 ミサに出始めた頃、晴佐久神父さまが「1週間の6日と23時間は、このミサの1時間のためにある」と仰ったのを聞き、さすがにそれはちょっとオーバーな表現ではないかと感じたことを覚えています。
 神父さまは最近のミサでもそう仰います。しかし今の私は「そうそう、そのとおり」と思って聞いています。これは私の信仰が成長した証しでしょうか?入門講座とミサというオアシスで、たくさんの恵みの水をいただいて、日々を支えられている私です。
 しかしそれに終わらず、私につながる多くの方を、もっとこのオアシスへいざないたいと思います。
 以下はある方がくださった言葉です。「あなたに会えて人生が好転したという人が現れたら、それは話を聞いてあげたからでも、良い言葉のアドバイスからでもなく、誰がそれを言ってくれたかなのです。あなたの人格に触れるからなのです」。
 もちろん、私の人格など欠点と弱点でいっぱいですが、私という一人の人間を通して、少しでもオアシスの風と香りを運ぶことができればうれしいな、と思っています。

「初金家族の会」3月例会報告

「初金家族の会」3月例会報告

担当: 志賀 晴児

 3月7日(金)、四旬節に入っての「家族の会」では、身近にあった微笑ましい話題を披露しあって、なごやかなひとときを過ごしました。

 次回は4月4日(金)午前11時から、初台教会の菅原 悟さんの「今の時代、神様は私たちに何を求めておられるか」と題してのお話を予定しています。

 ごミサの後、午前11時から、信徒館1階で行います。
 多数の方のご参加をお待ちしております。



◆下の画像は今年4月初めの桜と教会の様子です。クリックすると、大きくご覧いただくことができます。

教会全景

教会脇の桜



目は開かれた(受洗者記念文集)

樽井 (たけし)(仮名)

 2013年3月30日、神様から呼名(こめい)され、額に水を3度受けたとき、ある種次元の違う「気持ちのよさ」を感じていた。初めて味わう、「霊的な何か」である。カトリックの秘跡の凄さ、素晴らしさを実感した瞬間であった。私は真に生まれたのだ。

 2012年2月19日、よく晴れた日曜日、私は初めて多摩教会を訪れた。
 青い空の下に建つ白い教会。そのコントラストの美しさに小さな感動を覚えたことを記憶している。そして敷地に恐る恐る足を踏み入れると、満面の笑みを湛えた老信者の方が、「私の大切なお友達」と言って迎え入れてくださった。
 少しほっとして初めての入門講座に参加。その日はちょうど信徒総会の行われた日で信徒館は超満員。隅の方のテーブルで10数名がすし詰めになって入門講座は行われた。神父様は巡礼旅行から帰ってこられたばかりとのことであったが、お疲れの様子はみじんもなく、楽しい土産話とともにお土産を配られ、初めて参加した私にもお土産のメダイをくださった。
 その巡礼での出来事や洗礼志願式を控えた求道者の方々へ向けたお話を聞いているうちに、何とも言えず穏やかな異空間に身をゆだねているようで、それまで俗世間の沼地でもがいていた私は、何か一筋の光の縄を手向けられたような気がした。

 当時の私は、仕事のことと家族のことで毎日のように思い悩んでいた。
 転職を考えたこともあったが、大学受験を2年後に控えた子供のことを含めた今後の家族の生活を鑑みると、それもできない。また、そんな私を支えてくれるはずの家族は、(今思えば無理もないことでもあり、悪気もないのであるが)事態の重大さの理解が薄く、当事者意識も薄い。
 とうとう私は精神的に一人ぼっちとなってしまったという錯覚に陥り、「いったい自分は何のために苦しんでいるのか? 何のために生きているのか?」といった思いが日増しに強くなっていった。今まで大体のことは自分で解決してきたが、今回の事態は自己解決能力の限界を超えていたのだ。
 気が付くと、インターネットで近くのカトリック教会を検索して多摩教会を知り、電話をかけていた。
 「どうぞどうぞ。おいで下さい」。
 電話に出た方は、先述の、私を満面の笑みで迎えてくださった方であり、のちに代父をしていただいた方でもある。

 初めて多摩教会を訪れてから約1年、(()りつかれたように)入門講座とミサに通い続け、晴佐久神父様から語られる神様のみ言葉をシャワーのように浴びることで、自らに巣食うさまざまな負の思い(悪霊?)が洗い流されていき、希望が湧いてくるのを実感したのだった。
 また加えて、入門係の方々のきめ細やかな優しい心遣いや、入門講座を一緒に受講されていた信者の方々、求道者の方々、そして一般信者の方々との触れ合いの中で、ささくれ立った気持ちが滑らかに(なら)されていき、
 「もうだいじょうぶ。ご安心ください。神様はあなたを愛しています」、
 多摩教会のホームページのトップにある言葉が身体中の細胞に染み入ってきた。
 「だから生きているんだ」。
 「苦しみや試練は天の国へ入るためのプロセスなんだ」。
 いつの間にか、多摩教会を訪れるきっかけとなったことの解は出ていたのだ。

 それからというもの、「明日を思い煩うな」、「互いに愛し合いなさい」、「いつも喜んでいなさい。たえず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい」といった聖書のみ言葉が生きる糧となっていき、自分が思い悩んでいたことのほとんどすべてを、肯定的に受け入れることができるようになっていったのである。
 「永らく眠っていた私を開眼させてくれた多摩教会で、ずっと目を覚ましていたい。父と子と聖霊の交わりの中にずっといたい」。そう思った私は洗礼を決意し、晴佐久神父様に許可を願い出た。
 「あなたを多摩教会の仲間として迎え入れます!」
 力強く言ってくださった神父様のお言葉によって、今までの人生で一番熱い涙が頬を濡らした。

 ここまで導いてくださった晴佐久神父様、代父様、そして入門係の方々をはじめとする多摩教会の皆様、本当にありがとうございました。感謝してもしきれません。
 これからは、「福音を語る者」として一生懸命頑張ってまいりたいと思います。どうか末永くご指導くださいますよう、宜しくお願いいたします。
 神に感謝✝

【目次】 2013年 受洗者記念文集

カトリック多摩教会では、2013年復活徹夜祭に25名の方が受洗されました。
受洗を記念して作成された文集のうち、ホームページに掲載を許可してくださった20名の方の文章を、
2013年7月26日から少しずつご紹介してまいりました。
2014年3月10日をもちまして、完了です。

ただ、その内容は古くはなりません。
いつでも、お読みいただけるよう、ホームページには掲載したままにさせていただきます。
これからも、ひとりでも多くの方と福音の喜びを分かち合うことができますように。

なお、無断でのコピー、転載は固くご遠慮ください。

ご覧になりたいタイトルをクリックしてください

主任司祭巻頭言

更新日主任司祭巻 頭 言
2013年7月 26日晴佐久 昌英 神父神がその名を呼ぶ

新受洗者(2013年復活徹夜祭)のことば

更新日新受洗者氏名(仮名を含む)タイトル
3月10日樽井 (たけし)(仮名)目は開かれた
2014年2月26日椎野 闘志郎(仮名)それは突然に
11月23日蒼井 春菜(仮名)洗礼
11月14日桜井 琴乃(仮名)もう大丈夫。私は生きていていいの・・・。
11月7日松原 清子(仮名)洗礼の秘跡にあずかって
10月31日青井 かおる(仮名)神のぬくもりによって
10月24日和泉 はるか(仮名)花のしたにて
10月9日本田 静香(仮名)洗礼を受けて
10月2日佐内 美香福音宣言
9月25日マグダラのマリア・飛鳥(仮名)受洗への思い
9月18日奥野 英美(仮名)神様とわたし
9月11日谷合 伸子導かれて
9月5日レイマン(仮名)洗礼までの道のり
8月29日有働 洋平(仮名)洗礼
8月29日桃井 尚美(仮名)生まれ直す
8月21日国広 星児(仮名)神に感謝
8月13日沖 温子(仮名)神様の御業に導かれて
8月6日坂本 宏喜信じる
7月30日宮原 瑠奈(仮名)放浪はおしまい
2013年7月26日光山 真理子(仮名)神様からの愛