巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英「限りなく透明なキリスト教」

限りなく透明なキリスト教

主任司祭 晴佐久 昌英

 このたび、佐藤初女さんの新著がダイヤモンド社から出版されました。
 「限りなく透明に凛として生きる」というタイトルで、初女さんが日ごろから大切にしているキーワード、「透明」について語っている本です。
 本の帯に「透明であれば、ほんとうに生きやすい。」とあるように、「何かになる」生き方ではなく、すでに自分の中にあるものを大切にして、「透明になって真実に生きる」ありかたを勧めています。
 「『自分』が大きくなりすぎているこの時代こそ、わたしは生活の中に『信仰』や『祈り』を入れていき、素直な心で『はい』『ありがとう』『ごめんなさい』と言えることが透明に近づく第一歩なのではないかと思うのです」(5ページ)
 「特定の神や宗教にすがらなくても、日々『透明』を意識することで、正しい方向に導かれる声はだれにでも聞こえてくるものです」(103ページ)
 など、まさにキリスト教の最も深いところに流れている、透き通るような普遍性を感じさせる言葉の数々に満ちている本です。
 巻末に、初女さんと晴佐久神父の対談も載っていて、私が、キリスト教の透明性や、自分自身が人と向かい合う時に透明であろうとしていることなどを語っています。
 「よくイエス・キリストを窓ガラスにたとえたりするんですよ。神さまが太陽で、イエスがほんとうに透明な天国の窓だから、神さまの愛をすべて与えてくれると」(161ページ)

 つい先日、谷川俊太郎さんとも対談する機会がありました。
 谷川さんもまた、不思議に「透明」な詩人です。その透明さに魅せられて詩を読み続けてきた一人として、谷川さんのご自宅での透き通るひとときは、忘れがたい体験になりました。澄んだ春の日差しの中、中庭で満開の白梅が光っているのが、なんだか宇宙的な出来事に見えてしまいましたが、この感じは谷川ファンなら分かってくれるでしょう。
 中学三年生の時に初めて読んだ、文庫本の「谷川俊太郎詩集」。その中でも、強烈な印象を受けた「六十二のソネット」の中に、こんな一節があります。
 「空の青さをみつめていると/私に帰るところがあるような気がする」(41番より)
 これを書いた62年後、昨年末に刊行された最新詩集「おやすみ神たち」で、詩人はこう書いています。
 「空という言葉を忘れて/空を見られますか?/生まれたての赤んぼのように」(「空」より)
 詩人の生涯は、まさしく「透明」を見つめる生涯でした。その「透明」を、キリスト教では「神」と呼び、その透明さが人を救うのだということを、対談ではお話したのでした。「谷川俊太郎のことばをこそ、今の世界は求めているんです」と。
 「谷川さん、詩をひとつ作ってください。」というタイトルの映画に、日本カトリック映画賞を贈ることになりましたが、私は授賞理由の中に、こう書きました。
 「透明な『天のことば』と、汚れと情熱を孕む『地のことば』のあわいを生き、天地を結ぶよう召された者が、真の詩人なのではないか。それは本来ならば宗教の使命のはずなのだが、彼らの多くはいまや天のことばに勝手な色を塗り、地のことばを暴力で支配している。今、だれもが求めているのは、欲望も悲しみも愚かさもすべて含めて人間を普遍的に祝福することば、すなわち詩なのである」(「このような映画を見たことがない」より)

 キリスト教は、限りなく透明です。あらゆる色を受け止め、あらゆる出来事を包みます。
 澄み切った詩のことばで神の愛を語ることこそが、キリスト教の美しさなのです。

連載コラム:「オアシスを心で記憶する」

連載コラム「スローガンの実現に向かって」第51回
オアシスを心で記憶する

諏訪・永山・聖ヶ丘地区 伊禮 正太郎

 2年前にある計画をたてました。それは、多摩教会に青年会を作ること。この教会には青年同士で集まるコミュニティーがありませんでした。
 そこで2年前に青年会を作ることを決意しました。一人一人に呼びかけました。みんなは戸惑いながらもついて来てくれました。時には自分だけが盛り上がってるのかもしれないと思い、とても不安になりました。
 振り向けば誰もいないのではないだろうか? そう思う時もありました。でも、みんなしっかり付いて来てくれました!
 そして今回ついに正式な青年会として認めらたのです。教会には青年達が必要です。そして今の時代だからこそ青年会という集まりは大きな意味を持つでしょう。
 いま、教会に来る青年達が少なくなっています。それを昔の人たちはこう言います。
 「昔は青年がいっぱいで教会は盛り上がってた」と。
 だったら俺達にも出来るはず。この教会を盛り上げられるはず。10代、20代はとても大事な時期です。大人たちが勝手にやってきた教育の責任を押し付けられ、面白くもない昔話を聞かされる毎日に疲れているはずです。青年達の居場所が必要です。楽しいことや辛いことをシェアしてくれることが必要です。

 「心の記憶」を増やしていきましょう。「頭の記憶」ではダメです。例えば皆さんは中学校で習った因数分解を覚えてますか? きっと思い出せないはずです。
 なぜなら頭で記憶したからです。でも中学のときに友達といった場所、好きな人に告白した言葉は、何故か鮮明に覚えてるはずです。それは「心で記憶」したからです。
 そんな「心の記憶」を増やしていく場所が青年会であってほしいです。そして、われわれ青年会は真の家族です。家族を愛するように隣人を愛す、そんな愛が今の日本は薄れていると思います。
 沖縄には警察も医者もいない島がいくつかあります。その島では事件・事故が起きません。みんなが家族のように愛し合っています。そこは小さな島ですが、とても大きな愛があるはずです。
 似たように僕たちも真の家族です。最初は恥じらいがあっても、そんなの1時間で無くなります。1時間後には家族になっているのです。

 新しく青年会が出来るのは、とても稀なことだそうです。でもこの教会には青年同士が集まれるオアシスがあるのです。
 われわれ青年は社会にもまれて、汚くなります。醜くなります。そんな醜さも愛せる青年会になりたいです。
 今の世代の青年達だけで作り上げた「愛」の溢れた青年会、そして青年たちのオアシスはとても脆く崩れやすいですが、僕達は負けません。
 そして必ず僕達が守り抜きます。 アーメン

「初金家族の会」からのお知らせ

「初金家族の会」からのお知らせ

 3月6日初金ミサに続き神父様と一緒のお祈りの後、写真を信徒館2階のモニターで見ながら、お話しを聞きましょうとの提案を受けて2階に移っての家族の会となりました。
 卓話のテーマは、昨秋に引き続き、南大沢・堀之内地区の尾崎ひろみさんがご主人と歩かれた「サンチャゴ・デ・コンポステーラ巡礼の旅」で、スライド写真を交えて、美しい風景や、同じ路をたどる人たちとの交流など盛り沢山の内容でした。尾崎さんが巡礼のために体力強化の準備をなさったことや、沢山の書籍で勉強された予備知識など、一般のツアー旅行と違う本当の巡礼の旅を感じました。
 誰もが一度は夢見るサンチャゴ・デ・コンポステーラへの巡礼ですので、出席者からも真剣な質問が相次ぎ、素晴らしい分かち合いの雰囲気でした。尾崎さんがまた巡礼の旅をなさったら、ぜひお話しをとの声も出ました。

 4月は聖金曜日で初金ミサ、初金家族の会はありません。
 次回は5月1日、初金ごミサの後、中嶋誠さんの長崎での「信徒発見150周年行事」に参加された体験談を予定しています。皆様どうぞご参加ください。

 「みんなちがって、みんないい」、初金家族の会は、毎月第一金曜日のごミサ後、おひるまでの1時間、楽しく歓談しながら絆を深める自由な集いです。どうぞどなた様も、ご自由にご参加ください。