入門講座(3月・4月・5月)

= 入門講座からのお知らせ =
入門講座は、3月、4月、5月の間、不定期での開催となります
ご注意ください

3月の予定
(4月以降は、追ってお知らせいたします)

※日曜日のクラス

日にち時 間内 容
3月 3日(日)11時15分~入門係による分かち合い
3月10日(日)休 講休 講
3月17日(日)11時15分~入門係による分かち合い
3月24日(日)11時15分~神父さまによる拡大入門講座「復活祭を祝うヒント」
3月31日(日)11時15分~入門講座(堅信講座も兼ねます)

* * *
※金曜日のクラス:3月29日(金)のみ(3月はこの日以外ありません)

時 間内 容
10時00分ロザリオの(で)祈り=光の神秘=(集会司式者担当)
13時30分十字架の道行の祈り(入門係担当)
19時00分ロザリオの(で)祈り=受難の神秘=(入門係担当)

・・・上記の祈りは、3月29日~30日教皇の勧め「主にささげる24時間」のプログラムの一部です

巻頭言:主任司祭 豊島 治「すごします」

すごします

主任司祭 豊島 治

 3月6日は今年の灰の水曜日となっています。復活祭までおよそ40日を逆算したこの期間を四旬節としています。
 フランシスコ教皇様は今年の四旬節メッセージのなかで、人間と被造物との関係を見直すことをはじめに訴えられています。時間の経過が早いのか、それとも情報が多いのか、私たちは一つひとつのことを丁寧に考えて過ごすことが難しくなっています。そんな中で教皇様は今年も、断食と祈りと施しをもって復活祭の準備をするよう呼びかけておられます。
 そして、断食・祈り・施しについて具体的な実践の心構えを記されています。エントランスに置いておきますので、どうぞお読み下さい。後日、中央協議会のホームページにも掲載されると思います。

 灰の水曜日というと、平日でもあって日本ではあまり認識する機会が少ないのが現状のようですが、昔、ポーランドの方と一緒に灰の水曜日を迎えたときのことが思い出されます。それは、私の今までの感覚にとっては、新鮮な出来事として記憶に残っています。
 すべてのポーランドの人がそうであるとはいえませんが、彼らはしっかり灰の水曜日の生活を、自然に過ごしていました。まず、灰の水曜日は徹底的に食事を控えます。彼は重機を動かす仕事のため、集中力維持のために1回の食事はしっかりいただき、ただ肉類は食べません。そしてミサに行きます。
 ただ、灰の水曜の前の週の木曜日に、彼はふるさとの家族から航空便で届いたドーナツをどっさりテーブルに置いて、勢いよく食べていました。これが彼らの昔からの風習で、四旬節の始まる前の木曜に食べる「ポンチュキ」とよばれる、ドーナツのような、油で揚げたお菓子です。私の翻訳が正しければ、彼らはこの木曜日のことを、「脂の木曜日」と呼んでいました。彼らは、「木曜=キリストの晩餐→食事を祝う」「金曜日=キリストの受難→節制と苦しみを共感する」「日曜日=主の復活→祝い」という曜日感覚が生活のなかに入っていて、木曜日は質素ながらもしっかり食事を楽しんでいることが多かったのです。

 日本のある幼稚園では、四旬節中、週1回金曜日の昼食を、「おにぎり弁当の日」としているところがあるそうです。いつもはお弁当箱を(いろど)っているいろいろなおかずを控えて、その分の費用を「施し」にまわすというもので、強制ではありません。でも、保護者のかたは、それぞれ知恵をもってご飯の種類を変えたり、おにぎりの中の具を工夫したりして、「傑作おにぎり弁当」を子ども達に提供していました。いろいろやり方はあるようです。

 ご存じのとおり、子どもたち、高齢の方、病気、妊娠など、健康上の理由などから通常の食事をとることが勧められるのはいうまでもありません。また、断食ということばで、近年のダイエットのための断食や食事制限と、四旬節の勧めとは同じではありません。ダイエットや健康管理は自分のためにするものです。共に生きる人類の仲間を想うところから、この世界を見ていく必要があるというのが視点です。四旬節メッセージの断食についての文書もお読み下さい。規定されているのは、灰の水曜日(今年は3月6日)と聖金曜日(今年は4月19日)です。

 「地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしは これらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。」(創世記9.2-3)

 ノアの箱船で上陸後、神のことばに忠実であった彼らに対しての宣言で、被造物である動物を食べることを許されています。いのちの重さを忘れないように、味だけでなく、いのちの重さを考えましょう。
 このようなことから、「施し」である「愛のみ(わざ)」が求められます。かつては毎週金曜日に行われていた断食は、その後、金曜日は「愛のみ業」の実践をいつもより多く行うようにという呼びかけに代わっていったそうです。現在は、「愛のみ業」は「愛の奉仕(カリタス=ラテン語)」ということばで明記され、通常の自らの生活を削ってでた「痛み」を行動として、そして、献金としてささげるようになりました。そうした意味で、四旬節は愛の献金の実践をすることになり、これは担当カリタスジャパンからの提案が日本の司教総会で承認され、全国のカトリック教会をとおして、一人ひとりの行動で実践されることであります。信徒でなくても、つながりをもつ学校でも呼びかけています。最近行った焼き鳥屋さんにも、「四旬節愛の献金箱」がレジ横にあり、びっくりしました。数分様子をみていたら、「つくね」50本分にあたる金額を献金して帰られるお客様がおられました。それぞれやり方がありますね。

 灰の水曜日、当日のミサは日曜主日のミサとあまり大差ないように見えますが、聖歌の曲調も異なります。「あなたはちりであり、ちりに帰って行くのです」「回心して福音を信じなさい」という呼びかけで一人ひとりが灰を受けるとき(会衆全員、受けられます)、いつもと違う気持ちがでてくるのでしょう。典礼委員会で呼びかけがあるかと思いますが、水曜日外出で多摩教会10時ミサに赴くことができれなければ、参加できる他の教会で灰を受けることを検討しましょう。多摩教会では翌日曜の四旬節第一主日での灰の式は行われないのでご注意下さい。


Ponchokiこれがポンチュキ。砂糖をまぶした揚げパンで、ジャム入り

「教会委員長就任にあたって」

寄 稿
教会委員長就任にあたって

2019年度司牧評議会委員長 小俣 浩之

 これまでお二人の委員長のもと、3期6年にわたり副委員長として過ごしながら委員長のご活躍ぶりを間近に拝見させていただき、とても私はその器ではないと痛感していました。半面、委員長のご苦労の大きさも近くにいてよくわかり、せめて私が委員長を引き受けることで、教会奉仕に携わる方々の負担がほんの少しでも軽くなればと、今回の互選会には腹を括って臨みました。そして何よりも、豊島神父様の過負荷が相当なものであり、今後その度合いが増すに違いないことを実感するにつれ、少しでも雑務を引き受け、せめて精神的負担だけでも軽減させていただくことができればと願い、委員長を引き受けさせていただくことにしました。

 ところで今年度のスローガン、もう覚えていただけましたか?「弱音・不安は神様に預けて、受け入れあう笑顔をもらいに行こう」です。腹を括って互選会に臨んだものの、いざ本当に委員長として選出されたときは、ああどうしようと悶々とした日々を過ごしていました。果たして私などがこの任をこなすことができるのか...、主がお望みならば私をお使いください、そう祈るばかりでした。いよいよ信徒総会も迫ったある日、今年度のスローガンとして神父様から頂いたのが、「弱音・不安は神様に預けて...」でした。この言葉がそのときの私の心にすっと染みわたり、気持ちがものすごく軽くなったのです。他にもいくつか素晴らしいスローガン候補があったのですが、もうコレ、これしかありませんよと神父様に即答したのでした。皆さんもきっとありますよね、なんだか面倒くさいなあ、心配だなあ、どうしよう、そんなふうに思うこと。そういうのは神様にお預けしてしまいましょう。そして一歩踏み出したその先に、「受け入れあう笑顔」を見ることができるのです。

 私は本来、フィーリングで生きているような人間で、整理整頓して考えることや、統率力に長けているとはとてもいえません。ですので、私のやるべきことは、まずは皆さんが様々な奉仕をしやすくなるように努めることかなと思います。それと、これから委員長になる方のためにも、特にもっと若い世代、現役バリバリの方でも(こんなふうですが私も現役バリバリのつもりです)、チーム力で委員長できますということも示せたらいいなと思っています(副委員長の方々、引き続きよろしく!)。

 さて、現実に目を向けると、たとえば建物維持等のためにお金は非常に重要な課題です。これについてはさらに多くの皆さんに、いっそう意識を高めていただきたいところではありますが、そのためにあまりにギスギスとしすぎては、本末転倒、それどころか教会自体が不活性化し、かえって経済状態が悪化するリスクもあるのではと考えています。
 いろいろと皆さんにご協力を仰ぐこともあるかと思いますが、どうかこれからも気持ちをひとつにして、受け入れあう笑顔に満ち溢れた素晴らしい共同体として、多摩教会がさらに発展するよう、ご一緒にがんばりましょう。よろしくお願いします!

連載コラム:「立春の日の明け方、こんな夢を見た」

= 弱音・不安は神様に預けて、受け入れあう笑顔をもらいに行こう =
連載コラム「スローガンの実現に向かって」第96回
「立春の日の明け方、こんな夢を見た」

福音史家ヨハネ 山口 泰司

 例によって私は、とうに取得しておくべきものを、自身の怠慢によって、まだ取得してこなかったことに気付いて、途方に暮れている。今からでも遅くない、何とかしなければ、と焦るのだが、どこを訪ねて何をしたらよいのか、皆目わからない・・・。高校や大学の卒業試験さえまともに受けずに、今日まで万事ごまかしで通してきたのだ。だが、ひとは騙せても、自分までは騙せない。もう一刻の猶予も許されない。今日の若者たちの目の覚めるような活躍ぶりを見てみるがよい。彼らのまぶしいばかりの姿は、みんな、幼いころからの決意と精進のたまものではないか!

 気が付くと、私は、大きな象の背中に乗って、どこかを目指しているようだが、ここがどこで、どこを目指しているのかもわからずに、またまた呆然自失している。すると、なぜか私の後ろに乗っている見知らぬ人物が、気のせいか、こう呟いたように感じる。「君は、南の方に続く、あの海岸線を辿って、さらに南の島々を訪ねては、私と一緒に探索の旅を重ねてきたではないか。決して、何もしてこなかったわけでは、ない」。見ると、確かに南の方には、長い海岸線の遥か向こうに、緑の美しい島々が点々と霞んでいる。でも私には、思い当たる節がない。きっと誰か別人のことだろう。そう思って振り返ると、颯爽たる風貌の人物が、落ち着き払った様子で一枚の名刺を差し出して、こう言う。「これをもって行って、見せたらよい」。名刺には、名前も記してあったようだが、ただ小さなマークだけが目に入る。いったいこの人は誰で、どこに行けというのだろう。そう思っていると、場面は一転してしまう。
 私はずいぶん昔に亡くなったはずの父を伴って、かつて学んだある外国の大学の裏山の径を辿っている。右手下方には、もう何百年も前に建てられたカレッジのチャペルが順に姿を現して、懐かしさに胸を突かれる。その一つに少し近づくと、まるで廃れた修道院を思わせるような古さだ。父は無言で、何もかも知っているような面持ちで、静かに見守っている。私は安心したのか、そのまま、再び眠りに落ちたようだ・・・。

 目が覚めると、昨夜の気落ちした気分はすっかり消えて、何か希望とやる気に満ちている。昨夜は、人生の根本問題の解決法を説いた、ある不思議な書物の一節を読んで、この十年来続けて来た私の努力は一体何だったのかと、そのあまりの違いに、ただの虚しさを超えた遣り切れなさを抱えて、そのまま床に就いたのだった。
 それにしても、あの人物は、いったい誰だったのだろうと改めて考えていると、印度の聖典『バガヴァッド・ギーター』の王子アルジュナとクリシュナ神のことが思い出される。クリシュナは、戦場を前に、武人としての務めを忘れて立ち尽くすアルジュナに、人にはそれぞれの使命があって、誰もそれを避けて通ることは許されないのだ。どんなに困難でも、勇気を鼓して、おのが使命を果たすことが神に仕える者の道なのだと、諄々と説くのであった。
 そうだ。あの不思議な書物に書いてあった人生の根本問題の解決法とは、その所在には、ずっと前から気付きながらも、そのあまりに高度な内容を前に怖気づいて、これまで一度もまともに取り組んでこなかったものだ。愚かにも私は、真剣に挑戦しようともせずに、自分の無力と不甲斐なさを、いたずらに嘆くばかりであったのだ・・・。そう考えると、教会では、今日は「病者の癒しのミサ」の行われる日であったことに、思い当たる。すると、突然、あれは、見知らぬ青年と父とクリシュナ神に姿を借りたイエス様ご自身であったのだという確信が、五体を走る。

 教会では、案の定、弱気とごまかしという病にとりつかれていた私を一喝するよう言葉が次々と繰り出されて、私を圧倒する。
 「災いだ。私は滅ぼされる。私は汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者」というイザヤの言葉は、昨夜の私の気持ちそのままではないか。だが、セラフィムの火鋏にはさんだ炭火で唇を焼かれたイザヤの、主のみ言葉に決然と応えようとする言葉は、何と力強いのだろう。「私がここにおります。私を遣わしてください」。ここには、一点のたじろぎも躊躇(ためら)いも見当たらないではないか。
 それに応えるかのような、続くパウロの言葉も、何と謙遜で、誇りに満ちていることだろう。「私は神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でも、一番小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」としながらも、「私は他のすべての使徒よりずっと多く働きました」というのは、神の恵みによって使命を果たし続けてきた者だけに許される、なんと誇りに満ちた、輝かしい感謝の言葉なのだろう。私はと言えば、「やっと最後に、月足らずで生まれたのだもの」と言っては、ただただ誤魔化すばかりだったというのに・・・。
 そして最後は、ペトロの持ち船に乗ったイエス様の言葉と行いに、おそらく何の備えもないまま、全てを捨てて着き従ったペトロ、ヤコブ、ヨハネの、何という潔さだろう。御子キリストによって召し出された者の、恐れを知らぬ一途の姿が、胸を打つ。私たちも、それぞれに、この世に使命を負って生まれてきたというのに、私の、何という卑怯・未練なのだろう。言い逃れ・弱腰は、文字通り死に至る病なのだ。
 ミサの終わりに、病者の癒しの香油を塗っていただいた私は、「そうだ、私も行って、そのように行うのだ。ただ、やるだけのことではないか」と、まるで憑き物が落ちたような気持ちで、帰途に就いたのだった。あの夢に現れた人物は、今日のミサを先取りして、私を温かく励ましてくれていたのだと気付くと、私は、こみあげる感謝の涙を抑えることができなかった。

2月:「初金家族の会」からのお知らせ

「初金家族の会」からのお知らせ

島田 潤一

 積雪が予報された厳寒の2月初金でした。豊島神父さまの説教は聖書の翻訳改訂で病気に関連する記述の見直しが行われることにちなみ、病気に関する考え方について、次のようなお話がありました。
 「健康・病気の本質は何か、治療が困難な病気、福祉の狭間の問題、多々困難はありますが、教皇様の医療関連者への『善意に、寛容に、愛の奉仕をもって』との言葉が救いになるでしょう。
 今日の福音は神の国のイメージとして『土』という言葉をとりあげています。食物を豊かに育てるには、適切な空気、水、栄養などの存在が要件です。私たちも誰かと共に神の国のベースとなる土に、愛、優しさ、思いやりを耕し込むことが必要です。神さまの恵みを受け、良い土作りができることを願いながら御聖体をいただきます。」

 初金家族の会は、志賀晴児さんが情報過剰時代についての様々な社会現象などや、マザー・テレサ、曾野綾子さんの言葉をまじえて話され、マスコミについては真実を伝える勇気を、受け手の私たちにとっては正しい判断ができる知恵を授かれるようにお祈りしたいと結ばれました。
 この話の後の懇談では、ネット掲示板情報を信用しての痛ましい事件、幼児虐待事件の情報の発信、評価などについての意見が交わされ、教育、情報の扱いの重要さを認識され、信仰の上でも重要なことが分かち合えました。

 次回の初金家族の会は、3月1日、初金ミサの後、午前11時頃から開催の予定です。1時間ほどで、場所は信徒館です。NHK(Eテレ)のビデオ、「あしたも晴れ!人生レシピ」より、シスター鈴木秀子さんの「苦しみを幸せに変える人生を」を観て、シスターの信仰を分かち合うことを企画しています。
 「初金家族の会」は、初金ミサの後、貴重な体験を披露し、分かち合い、信仰を語り合う、信仰家族の絆を深め合う楽しい会です。皆様、どうぞお気軽にお立ち寄り下さい。