連載コラム:「先にいるものが後になるも神の国へ」

連載コラム「スローガンの実現に向かって」第56回
先にいるものが後になるも神の国へ

関戸・一ノ宮・府中・日野・野猿地区 島田 潤一

 信仰は聞くことに始まり、聞くことに尽きるとの言葉があります。
 聞くことは神の言葉を聞くこと、神の言葉を聞くことは、神父様の言葉を聞くこと。このような思いに至ったのは、「多くの先なるものは後に、後なるものは先になるべし」との聖書にあります。多くの先なるものとはまさに、思い切って手放せないものを抱えた頭でっかちな自分ではないか。「読書100回、意自ずから通ず」という言葉があります。100回神の言葉を聞けば、福音を体得できるのではないかと、ミサに通いました。
 そろそろ100回になりそうです。それで何が変わったか自問しました。心の方向が、聖書を字面で読んでいた、2次元の世界より、3次元、4次元、5次元(聖霊)の世界に広がる次元を超えた透明、普遍なものを感じるのです。
 聖書講座を受講して字面での独り善がりとは内容、解釈、感じが異なり、初心者であることをあらためて感じています。毎回新しい発見があります。

 庭の雑草を見ています。雑草の花をみて、栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていないとの言葉を思い出します。花、蜜を吸う蜂、蝶、蟻、神の創造した世界に浸れます。バイオミメテックスなる自然の生物の機能を人工的に再現しようとする学問があります。人工的には、蜂の動きさえ神の技に及びそうもありません。野の花はどうして美しく見えるのでしょう。ものを見るのには目と視神経、脳、目よりの情報を解釈する心が必要です。 神はアダムを創造された時自分に似せ造られたとかいてあります。雑草の花を見ている自己の目と視神経、脳、心も神に似せられているのかなと。思いつつ、無心に凝視していると神様もこんな感じで見ていたのではと不思議な感覚になりました。
 その夜、初めて天然色の夢を見ました、川辺を歩いていると九厘草、すみれ、シャガなどに似た花が群生しているところがみえました。その鮮やかさ、美しさ、かぎりない透明感はいままで経験したことないものでした。少し見とれ、写真でもとおもい、家にカメラを取りに行こうとしたところで、道がわかなくなり、白黒の夢に変わり、目が覚めました。主が神の国のオアシスをすこしだけお示しになったのでしょうか。この夢の後、主が、身近に感じられるようになりました。神に似せて創造された体と心に聖霊が働くのかもしれません。

 日曜日のミサに通うようになって2年近くになります。多摩教会のミサは独特のものを感じます。晴佐久神父演出、主演、信徒全員参加のミュージカルです。入祭のミサ曲にはじまり、聖体拝領にいたるまで、参加、演じていることを実感します。毎回のミサが晴佐久神父様の一つの作品です。ミサは一つの式ですから、洗練された典礼の形式には歴史の重みを示します。祈りと信仰の場として厳かさを感じさせます。
 一番後ろの席で耳の少し悪い私にも説教ははっきりと聞こえ、巧みな採光で、明るいのはこの教会の特徴で、神の国のオアシスに近づけそうな気がします。
 主の平和につつまれ、限りなく透明な永遠の命を感じ、一週間を過ごすことができます。
 神に感謝!