連載コラム:「福音を語るとは」

「荒野のオアシス教会を目指して」

一瞬の勇気で、一生の家族!
連載コラム「スローガンの実現に向かって」第62回
福音を語るとは

落合・鶴牧・唐木田・町田地区 北村 司郎

 私が晴佐久さんというお名前を知ったのは、1979年10月号の寺西師の多摩カトリックニュースへの巻頭言「晴佐久さん覚えていますか」です。正確にはそれ以前にも多摩ブロックの練成会のリーダーとして2回ほど参加させていただいているので、その際に、晴佐久神父様にお会いしていると思いますが、残念ながら記憶にありません。この巻頭言は「荒れ野から」(教会の本棚にあります)に収録されておりますので、ご一読をおすすめします。また、この本のカットは神父様が神学校時代に書かれたものですから合わせて、ご覧になったらよろしいかと思います。寺西師はこの文の中で晴佐久さんご夫婦(神父様のご両親)の病床での様子を垣間見て、「私たちの中に神の国は来ている」とおっしゃっています。神父様の言葉の中によく「福音を語る」という言葉が語られますが、その原点は、晴佐久神父様の家庭の中にあったことを感じます。神の国の中では福音が語られます。福音が語られている場所、それがオアシスなのです。教会は神の国、そして、オアシスです。

 晴佐久神父様の在任中の2012年の秋ごろ、ショッキングな記事が一般紙に出ました。ミラノのマルティー二枢機卿が亡くなられた際に言われた言葉、「今の教会は200年、後戻りしてしまった」というものでした。その半年後、現在の教皇様が選出され、大きく変化していきます。教会はこの世界の中にあるわけですから、今から考えると、その時代背景を反映し大きな問題を提供し、変遷してきたことは周知の事実です。だからこそ、必要なのはイエス・キリストがどのように人々に教え、かかわったかです。それが、教会の原点なのです。神父様はそれを、「福音を語る」、「もう大丈夫、神さまが私たちと一緒にいる」そんな簡潔な言葉で話されたのだと思います。それをこの7年間、身をもって語り続けたのだと思います。
 福音書が書かれた目的は歴史書でも、倫理書でも哲学書でもなく、宣教のためです。イエスの言動は人間存在の根本的なもの、「私そのもの」( being )にかかわるものです。それに対して、この世を生きていく物質的なもの、能力的なものなど( doing )ではありません。いくら多くの財産、高い学力をもってしても、人間の幸福にはつながりません。イエスはそのようには教えませんでした。人々に接しませんでした。 being だからこそ普遍性(カトリック)があるのです。神父様の話が他宗教やプロテスタントの方々に受け入れられるのは、 being の話だからだと思います。受洗する方々が多いのはそのためだと思います。

 多摩教会の信徒数は今年の受洗者を加えると、1200名位になります。この数字は、この多摩の地に教会を、と教区にお願いしたとき、試算した数字です。多摩ニュータウンとその周辺の人口は当初40万人だったのですが、計画変更で30万人になりました。その0.4%すなわち1、200名が目標でした。聖堂もその数から250名を収容できるスペース、と考えました。当初の計画が実現していくことで、歴代の神父様6名の努力を思い起こします。私自身8年間のブランクはありましたが、この教会に属していられたことに感謝しています。
 晴佐久神父様、7年間お疲れさまでした。そして、どうもありがとうございました。これからもご活躍をお祈りいたします。