神様とわたし(受洗者記念文集)

奥野 英美(仮名)

 今、私は穏やかな平安と深い喜びを感じている。
 洗礼式の翌朝から私の目に映るすべてのものは温かく、樹木草花は一つひとつの輝きを感じさせてくれる。以前に増して世界が美しく変化した。神様が私と共にいてくださると胸の奥深く感じる事ができる。

 2013年3月30日の洗礼式が近づくにつれて、一つひとつ洗礼を決心して良かったという実感がありました。
 当日は、これから起きる未知の体験に緊張をしていました。私の前に名を呼ばれた方の(りん)とした返事に励まされ、私も「はい」と神様に向かって返事をしました。聖水をかけられているとき、「これで新しい私になれる」との思いでいっぱいでした。天に名を刻み、信仰を宣言し、これからは聖霊によってとりなしを受けられると心強く感じました。ぶどう酒にひたしたパンで生まれて初めての聖体を授かりました。ぶどう酒のおいしかったこと! 帰宅する頃には「古い自分が過ぎ去った」心の軽やかさを感じていました。
 翌日の復活の主日にて、聖体を受けたとき、晴佐久神父様が神様の器であるように感じられ、そのあまりに穏やかで愛に満ち満ちたまなざしに神の愛が伝わってきて、涙が溢れて止まりませんでした。
 聖堂で、新しい受洗者の紹介をされ、立って後ろを見ると、なんと沢山の方が祝福し拍手をしてくださっていたことでしょう。23年前の結婚式のときのように嬉しくて、私は神様と結婚したのだなと思いました。

 会社に行って仕事をしていても胸の中で讃美歌が流れ、時折とてつもないときめきと、一人静かにいるときは突然第三の涙が溢れてきました。
 これまでは、不快なことがあると自分の中の感情のざわつきに、他者の助けを得たい私がいましたが、聖霊にとりなしを、イエス様により頼み、私と共にいる神様に打ち明けます。すると感情と共に過ごした私の中の小さな子どもを自分で慰めることができるようになりました。何より「もう孤独ではない」と自分自身を励ますことができます。

 これまでの人生で、私は愛を求めた母からは思いやり、温かさ、慈しみを十分には感じられずに育ったと感じてきました。母は自分自身の人生で精いっぱいで、そんな中でも私と兄を育て上げてくださいました。若い頃、私は寂しくて、私を認め愛してくれる誰かがいると思っていました。しかし、外に求めても結果は期待どおりではありませんでした。
 今思い起こせば、神様は私の内にあって大事な選択をするときは「それはだめ」と内から発し、良いときは喜びを感じさせてくれていました。そして何度も聖書や教会へいざない、呼んでくださっていたのです。私が幸せになる機会を逃しても、このように私を一度も見捨てることなく何度も呼びかけて、導いて招き入れてくださいました。私の罪を赦し、「あなたはわたしの目に貴い」と言ってくださいます。

 天の父は御ひとり子、イエス・キリストによって全ての人を無条件の愛の内に招き入れてくださることを証しします。
 これからは、イエス様のみ言葉に従い、小さな我を捨て、この身を主にゆだねてお使いいただけるよう、この瞬間を生きていきます。

 天の父に感謝し、主イエス・キリストに感謝し、晴佐久昌英神父様の愛に心からお礼を申し上げます。そして、代母のHさん、一年間お支えくださった入門係の皆様、洗礼までの温かい思いやりを、ありがとうございました。
 洗礼式当日に私のために参列してくださった友人の方々にも、「皆さんが共に喜んでくださったことが、とてもとても嬉しかった」とお伝えし、両親兄弟を含むすべての方々に、今日も命を頂いて皆様と共に生きていることに、心から感謝を申し上げます。本当にありがとうございました。

導かれて(受洗者記念文集)

谷合 伸子

 今、私の中で『無名兵士の祈り』の詩が浮かんできます。

 「 求めたものは一つとして与えられなかったが、
   願いは、すべて聞き届けられた。
   神の意に、沿わぬものであるにもかかわらず、
   心の中の言い表せない、祈りは、すべてかなえられた。
   私はあらゆる人の中で、もっとも豊かに祝福された 」

 これまで生きてくることに行き詰まり、人々の中で息苦しく、いつも寂しさを抱えていました。
 両親からは跡継ぎを言われ続け、姉夫婦ともその問題も含め、軋轢(あつれき)が生じ、私の心は八方ふさがりでした。結婚してからもこれは続き、やがて子どもたち3人と家を出、新しい生活を始めてからはもっと自分を萎縮させ、自分を捨てて過ごしました。
 「これを続けていたら、私は人間ではなくなる」、そんなところまで行き着いて、やっと私はそこをも離れる決心をしました。本当にボロボロになっていました。再出発をしたそのとき、長男が亡くなりました。長男を失い、出口のないトンネルの中を彷徨(さまよ)っているようでした。

 「生きていくのは、もういい」、そう漏らした私に、ある方が次のような手紙を下さいました。
 「その思いは大切にしてください。それは、心に十分な休息を今持たせてやること。心を休めることは、静かな心の状態を持つことです。静かな心は『聖なる心』と言われています。この気持ちに自分を持っていくことで、だんだんと外の世界に煩わされなくなります。そして、恐怖、不安の感情は常に幻想に基づいていることを忘れずにいてください」。
 初めてこのような内容を目にしたとき、こんなことが私にできるだろうかと絶望的ではありましたが、ここから私の自分探しの旅が始まったのだと思います。

 それからまた数年し、「『神と出会う』とはどういうことだろう?」「『神が私の親である』と実感するにはどうしたらいいのだろう?」と、強く願うようになりました。
 導かれて、この多摩教会に足を踏み入れたのです。
 「ここはあなたの家庭です。ここにいる人々はみんなあなたの家族です」、晴佐久神父様の最初のことばです。
 私はずっと自分の居場所を求めていました。教会に身を置いていると、はっきり、ここが私の居場所なのだと感ずることができました。そして、私の疑問には、福音を聴くことだと答えてくださいました。
 金曜日の夜、永山の駅から教会までの道を、いつも花々を楽しみながら、夏には日陰を求め、秋には爽やかな空気を吸い、寒さの冬も手袋とマフラーで足取りも軽く通いました。振り返ると教会に通い始めたとき、ちょうど膝の炎症で歩くことが困難だったため、この距離を通えるのだろうかと心配していたにもかかわらず、帰り道は思わずスキップして帰ったのだと話して笑われたことを思い出しました。
 この一年、体調と環境に煩わされることなく通うことができたのは、大きな恵みでした。

 この度、洗礼のお祝いを頂き、いかに周りの人々が私を支えていてくれたのかを知り、温かく深いものを感じ取り、しみじみと味わいました。
 入門係の皆様、代母のMさん、教会でまだまごついている私に寄り添ってくださった方々、ありがとうございました。私の人生は、本当に多くの人たちの私の魂に響く力に支えられていたのだと感謝するばかりです。
 晴佐久神父様は、一人ひとりに向き合って対話して下さいました。私という一人の人間に向き合って受け止めてくださいました。「あぁ、大変だったね」この言葉は、どんなに私の深いところまで届いて癒してくれる言葉だったことでしょう。私自身を大切にしてもらうという幸せな思いを実感して、嬉しい、満たされる体験をしました。
 入門講座の中では、ただ涙が溢れ胸がつまるときには、穏やかな、なんともいえない平安な心持ちがしました。このしみじみとした幸せ感を味わうために教会に通っていたのです。

 神様がすべてリセットして新たにしてくださったということを思い起こし、前のものに全身を向けつつ、新しく生き直す人生を始めたいと思います。

「初金家族の会」発足!・・どなたでもどうぞ ♪

初金家族の会


☆日時 : 毎月第一金曜日 午前10時のミサ後(11時頃から)

☆場所 : 信徒会館1階

☆対象 : どなたでも

☆費用 : 無料


今年(2013年)の初夏、産声を上げた「初金家族の会」です。

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」
(マタイ18:20)

というイエスさまのひと言から始まりました。

この会のポリシーは、それだけ。
「イエスさまを中心に集まりましょうよ」というだけです。
それはまさに「家族」の集まり。堅苦しさのない、自由で気楽な集まりです。

年齢、性別、国籍、所属教会など、まったく関係ありません。
信徒であっても、そうでなくても、
ご都合のつく方なら、どなたでも大歓迎!!

「みんなちがって、みんないい」という雰囲気の中、
和気あいあいと過ごしませんか?

経験豊かな諸先輩から、興味深い貴重な体験談なども伺えますよ。

月の第一金曜日、多摩教会のお茶の間で、あなたをお待ちしています!!


以下は、この会の発足の経緯がわかる記事です。

記事のタイトルをクリックしていただくと、別ページが開き、お読みいただくことができます。

「初金家族の会」発足関係記事
「多摩カトリックニューズ」掲載号
「なんとなく集まりませんか」
2013年3月号
「仮称『おやじとおふくろの会』スタート」
2013年4月号
「仮称『おやじとおふくろの会』の名称決定」
2013年6月号



◎ 多摩教会への交通アクセス
(クリックすると、大きく見ることができます)
もう少し詳しくは →こちらをご覧ください。

永山駅バス停は「6番のりば」です



☆☆ お問い合わせ ☆☆

教会受付 : 042-374-8668

洗礼までの道のり(受洗者記念文集)

レイマン(仮名)

 初めて多摩教会に縁があるようになって、5カ月が過ぎました。しかし、いまだ実感が湧きません。

 ある日、川原を歩いていると、何ものかに吸い込まれるように、体が自然とある建物の中に入っていきました。気が付くとそれは多摩教会でした。
 入り口で入門係の人にミサの時間を案内され、信徒館の慣れない空気の中、ミサとは、どういうものなのか気になり、待つことにしました。
 ミサが始まり、晴佐久神父様の入場と共に、周りの皆が、神父様に引き寄せられたように感じました。いよいよ神父様のお説教が始まりました。初めて聞く私にも、大変わかりやすく、心地よく聞くことができました。今の自分の居場所はここだと思いました。
 すがすがしい思いの中でミサが終わり、神父様と一対一の会話になったとき、何ともいえないオーラに威圧されました。神父様からひと言、「気になる奴」と、強い言葉で言われ、ミサ初日は終わりました。

 それをきっかけに多摩教会に行くことになりました。毎週金・土の入門講座やミサに参加することで、いろいろな方々とコミュニケーションを取ることができるようになりました。また、いろいろなイベントを通して仲間もできました。
 今では、教会が、私の生活の一部になっています。

 今回、洗礼を受けたことで、カトリック信者として、より信仰を深め、神父様や教会の皆様に感謝の心を持ちながら、生活したいと思います。「父と子と聖霊のみ名によって。アーメン」と、十字を切ることの喜びと感謝の気持ちで生きていきたいと思います。
 まだまだ未熟な私ですが、今後ともどうぞ宜しくお願い致します。

洗礼(受洗者記念文集)

有働 洋平(仮名)

 ある日、蟻は考えた。
 教会へ行こう。教会へ行ってミサにあずかろう。

 で、その日曜日に、バスから、大きな看板の見えるカトリック多摩教会へ行った。乞田川沿いの桜の美しく咲く頃であった。
 蟻が、ゴッタ返す人間が行き交う教会の前に立ったのは、10時ちょっと前。踏みつぶされないように苦心しながら、聖堂にほとんどよじ登るようにして上がって、「聖書と典礼」を受け付けでもらってから、祭壇の左側に座った。さすがに、気がひけて前にドーンと座る勇気がなかったから。

 ミサが始まって聖歌を歌い、神父様のお説教を聴き、聴いている内に頭が混乱してきてよくわからなかったが、神父様が説教壇の上に指を立てて
 「あなたは救われている!」
 「神はあなたを愛している!」
 と、力強く陽気に明るく宣言されたので、メモを取っておいた。

 蟻は後日、蟻なりの道をたどって、洗礼を受ける決意をした。
 どんな道をたどり、どんな思いをおい、どんな苦しみの中を歩かなければならなかったかは、言うまい。
 ただ、蟻は幸福であった。

 蟻は、洗礼式を5日後に控え、ボールペンを持って、洗礼式の後に出す作文の構想を練っている。
 彼は、洗礼式に行き着くであろうか。

 ハレルヤ25人の友、
 ハレルヤ入門コースの皆さん。

生まれ直す(受洗者記念文集)

桃井 尚美(仮名)

 ついに受洗しました。
 ここまで導いてくださったことに、心から感謝いたします。
 準備期間中も十分に幸せでしたが、正式に教会家族に迎え入れていただけたこと、それがこんなにもあたたかく安心で、幸せなことだとは・・・。

 昨年の末に教会へ飛び込み、約3カ月。思えばあっという間でしたが、その短い期間で私の世界はガラリと変わりました。
 以前までは、どんなこともどうにかして前向きに捉えようと努めてきましたが、今では「すべては神様の御心。天国へとつながっている」と思うだけで少しも辛くありません。「御心が行われますように」、心からそう思ったときに初めて、自分がたくさんのものを背負い込んでいたことに気付きました。

 すべてを神様の御手に委ねて、軽くなって、こんなにあたたかくて、今、本当に幸せです。
 これから神様のそばを離れることなく歩んで行くことができますように。

神に感謝(受洗者記念文集)

国広 星児(仮名)

 宗教を信じない自分が、まさかキリスト教に入信するとは思ってもいませんでした。でも、こうして洗礼を受けるまでのプロセスが神の御業(みわざ)だと感銘しました。

 昔から自分の力ではどうしても解決できない問題を抱えていて、毎日を憂うつな気分で過ごしていたら、本屋で晴佐久神父の「十字を切る」に出会いました。この本を読んでとても心に響くものがあって、当時絶望だらけの自分にわずかに希望を見出すことができました。
 また、この本をきっかけにキリスト教に興味を持ち、カトリック多摩教会へ行きたいと思い、電話をしたら12月24日のクリスマスイブに来てくれと神父に言われ、これもなにかのご縁(神の導き)だったのかもしれません。

 教会は怖い場所で、下手なことを言ったらポアされるのではないかと、恐る恐る訪ねました。
 実際に来てみたら、そんなのは杞憂(きゆう)であって、教会の皆さんが温かく親切に迎えてくれて、本当の家族のように接してくれました。それからも毎週教会へ通うようになり、来るたびに泊まり、食事し、同世代の仲間と遊んでいたら、カトリック多摩教会の「与太者」とまで呼ばれるようになりました。

 こんな「与太者」と呼ばれている自分ですが、洗礼式で額に水をかけられた瞬間に何かが変わり、本当に生まれ変わった気分です。
 この日を人生のターニングポイントにして、自分の中の問題を解決していきたいです。

 これからも多摩教会へ通いたいのですが、残念ながら仕事の都合で遠くに引っ越すことになりました。
 この教会にいたのは3カ月間の短い期間でしたけれど、晴佐久神父、与太者たち、教会の皆さんの絆をこれからも大切にしていきたいです。
 また、皆さんに出会わせてくれた神に感謝。

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英「仲間たちと、出発しましょう!」

仲間たちと、出発しましょう!

主任司祭 晴佐久 昌英

 日本聖公会神戸教区の中高生大会に、講師として招かれて、岡山へ行ってきました。
 山間の施設で、70名ほどの中高生と30名ほどのリーダー、OB、司祭たちが和気あいあいと過ごしていて、ちょっとうらやましかったです。三泊四日のプログラムはすべて中高生自身に任されているということで、参加者たちの顔の輝きを見ても、これがいかに充実した集いであるかは、すぐに分かりました。
 この神戸教区の中高生大会は、日本聖公会内でも有名な大会だそうで、今年でちょうど50周年になるということです。節目の年を再スタートの年と位置付け、記念講演として、晴佐久神父が呼ばれたというわけです。大会二日目の講演会には、講演だけ聞きに来た信者さんも150名ほどいて、大変な熱気でした。
 大会テーマは、ずばり「継承」。講演でも、教会が受け継いできた大切な福音を、次の世代につないでいくことの大切さについてお話ししました。特に、中高生が仲間と共に信仰の喜びを知り、教会の尊さに目覚めることの重要性は、どれだけ強調してもしすぎることはありません。講演会で、「みんなで継承していこう!」と呼びかけながら、それこそ言うなれば「継承教会」であるカトリック教会こそ、このような大会を開く必要があるのになと、歯がゆい思いをしたものです。胸に伝統的な十字架の模様が入り、肩口に「継承」と書かれている、全員おそろいの黄色いTシャツを着た、彼らのはしゃいでいる姿が忘れられません。

 思えば私自身が、いわば中高生大会ともいうべき、多摩地区の中高生錬成会で育てられた司祭ですし、当時の中高生で、現在は教会の中核で活躍している信徒も多くいます。子どもでも大人でもない中高生時代に信仰と真剣に向き合うことはかけがえのない体験であり、生涯の信仰を支える力の源となることを、みんな、自ら体験してきたはずです。あのころの大人たちに、どれだけ援助され、育ててもらったことか。そのころの友達に、どれだけ支えられ、今なお助け合っていることか。
 小学生までは何とか教会に連れていけても、中高生になると教会から離れてしまうのが普通である現状の中で、絶滅危惧種を守るように中高生を大切にし、彼らと教会の関わりを真剣に考えることは、未来の教会を守り、考えることそのものです。

 今年は、多摩教会においても、何とか中高生会を活気づけ、中高生会再興元年にしようと、春には中高生ディズニーランド無料ご招待という、教会史上初の企画で大盤振る舞いをして景気づけ、夏には多摩教会としての中高生合宿を、本当に久しぶりに実現させました。合宿のミサには、合宿地のあきるの教会の信者さんも参加して、多摩教会の中高生のために差し入れをくださり、一緒に祈ってくださいましたが、「中高生がいるなんて、本当にうらやましい」と、つくづく言っておられました。
 合宿のおかげで、これからも、定期的なお泊り会をしていくことが決まりましたし、クリスマスには、中高生自身の企画で盛り上がってもらいたいと願っています。中高生たちが、教会って本当に素晴らしい集いだ、天国の始まりだと体感してもらえるように、教会をあげて応援していきましょう。
 何よりも、中高生の皆さん! 友達いっぱい誘って、教会という小さな天国で、たくさんの教会体験、感動体験をしてください。
 聖公会の中高生大会でも、中高生たちにこうお話をしました。
 「皆さんを選んだのは、神様です。神様が選んだのですから、何の心配もありません。さあ、神さまが出会わせてくださった仲間たちと、出発しましょう!」