7/20(土)は入門講座交流会へ!<終了>

「入門講座交流会」へのお誘い

来たる7月20日(土)、カトリック多摩教会の入門講座で、交流会を開催いたします

もちろん、どなたでも大歓迎!!

夏休みの幕開けを楽しくステキに飾ってくれることでしょう。

皆さまを心からお待ちしております。

どうぞ、お誘い合わせのうえ、お気軽にお越しください。

もちろん参加費は無料です。




◎ 多摩教会への交通アクセス
(クリックすると、大きく見ることができます)
もう少し詳しくは →こちらをご覧ください。

カトリック多摩教会
住所: 〒206-0022東京都多摩市聖ヶ丘1-30-2
電話: 042-374-8668



< 今後の予定 >

※ 8月15日(木曜日)(聖母被昇天の祭日)
   17時のミサ後、祝賀会。どなたでも参加可。
   ぜひ、お立ち寄りください。

※ 9月7日(土曜日)
   10時半より入門講座交流会
   (メニューはパエリア&ピザの予定♪)

※ 9月13日(金曜日)より2学期入門講座開始



☆「入門講座」については → こちら をご覧ください。
  神父様の「入門講座」についてのご紹介は → こちら の記事でお読みいただくことができます。

☆また、いきなり「入門講座〜?」という方には、多摩教会名物「おやつの会」が!
  どうぞ→ こちら をご覧ください。 神父様も → こちら でご紹介しています。

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英「50年後の多摩教会」

50年後の多摩教会

主任司祭 晴佐久 昌英

 他の教会から主日のミサに来られた方が、多摩教会の印象についてよく言われることといえば、「明るい教会ですね」や「元気のある教会ですね」、そして「子どもや若い人が多いですね」でしょう。(「聖堂のイエスさまが浮いてますね」というのもありますが)
 ちょっとほめ過ぎな気がしないでもありませんが、正直な感想としてありがたく受け止め、いっそうそのような教会であるよう努めたいと思います。
 「明るい」というのは、文字通り聖堂が明るいというのもあるでしょうが、やはりみんなが笑顔で楽しそうにしているからでしょう。ミサの後、一緒ににぎやかに食事をしたり、オアシス広場でお茶を飲みながら談笑する姿は、本当に和やかでいいものです。
 「元気がある」というのは、ミサに参加する人がエントランスまで溢れたり、聖歌を元気いっぱい歌う様子をはじめ、それぞれの係が様々な奉仕をする姿や、入門講座など多くのミーティングを開いている様子が印象的だからではないでしょうか。
 さて、しかし。
 「子どもや若い人が多い」というのは、どうでしょうか。確かにいるにはいますが、現在の多摩教会の主日に見かける「子どもや若者」は、ぼくのイメージする普通の小教区教会からすればむしろ少なめであって、決して特別に多いとは思えないからです。多いと感ずる人がいるとしたら、それは自分の教会や他の教会に比べて、ということなのでしょうが、もしそうならば、そんな現状はとても残念なことでもあります。

 子どもや若者のいない教会は、やがて衰退する運命にあります。
 特に、教会を我が家のように感ずる幼児洗礼の子どもが一定の割合でいなければ、その教会に未来はありません。教会員をすべて成人洗礼によってそろえるというなら別ですが、現実には小教区教会を支えているのは幼児洗礼者と成人洗礼者がおよそ半々です。
 成人洗礼者はその教会を支える上では即戦力であるのに対し、幼児洗礼の子どもたちが教会で活躍するには、時に半世紀近くかかるため、どうしても子どものことは後回しになってしまいがちです。原発問題などもそうですが、大人たちはいつも眼先のことで頭がいっぱいで、半世紀後のことをちゃんと考えていないのです。
 かくいう私も、物心つく前から教会の中を奇声をあげて走り回っていた幼児洗礼者ですが、半世紀にわたって教会を見続けてきて断言できるのは、奇声をあげて走り回る子どもは、教会の宝だということです。そして、それにやっと気づいてから子どもを取り戻そうとしても、もはや手遅れだということです。いわゆる少子化問題の一番の原因は、この「未来への想像力の欠如」なのです。

 「明るくて元気な多摩教会」がこれからもずっと続くためにも、ぜひ、「子どもがいっぱいの教会」を目指しましょう。もちろん、子どもの絶対数を急に増やすことはできませんが、まずは、子ども連れのお母さんが「来やすい環境」を整えることはできますし、また、お母さんたちの「子育て支援」をすることで、子どもを産み育てやすくし、孤立しがちなお母さんの悩みや負担を軽減し、教会と子育て家庭とのつながりを深めていくこともできるはずです。
 「来やすい環境」というのは、ミサや様々な集会、イベント時に、子連れで来ることのできる、いわば「乳幼児のバリアフリー」です。駐車場の優先、ミサの時に子どもが泣いても構わないという共通の了解、ベビーベッドやキッズコーナー、おむつ台や授乳室の設置、イベントの時の託児などが当たり前の環境である教会ならば、お母さんたちは足を運びやすくなります。
 「子育て支援」については、0〜3歳児くらいの子どもとお母さんを対象に、毎週もしくは月に2回ほど、週日の日中に開く集会が一つのイメージです。信者はもちろん、地域の方に広く呼びかけます。保育士やベビーシッターが子どもたちの面倒を見たり遊ばせたりして、その間お母さんたちは専門のスタッフから子育てのヒントを学んだり、お互いに心の問題を語りあったりします。神父の話を聞いて福音に触れたり、教会家族と出会うかけがえのない機会にもなるでしょう。
 「多摩教会の少子化対策」について、先日の司牧評議会でも呼びかけましたが、まずはこの二つを、少しづつでも具体化していければと思っていますので、ぜひご意見やご提案をお寄せください。実際に子育て中のお母さんたちの声を聴くなどしながら、奉仕チームを作ってチャレンジしていけたらと思います。
 まずはみなさん、50年後の多摩教会を思い描いてみてください!
 それは、どんな教会ですか?

連載コラム:「スローガンの実現に向かって」第30回

連載コラム「スローガンの実現に向かって」第30回
「心のオアシスを求めて」

稲城地区 竹内 博年

 山歩きが好きな私たち夫婦。毎月1、2回は日帰り、あるいは3〜4日がけのハイキングに出かけます。
 重いリュックを背負い、汗みずくになり息を切らせながら足を引きずって一歩一歩頂上を目指して歩きます。喉はカラカラ。そんな時大好きな歌手さだまさしの「自分の重さを感じながら坂道を登る。いくつもの峠を越えて、もっともっと上を目指す」と心の中で唱えながら歩き続けます。
 それでも疲れきって、「もう一歩も歩けない」と、くじけそうになる頃、山あいの湧水に救われたことが何度もありました。(白馬、槍ヶ岳、燕岳、会津磐梯山、安達太良山、、。)冷たく清々しい湧水! 口いっぱいに含み喉をうるおし、顔を洗い、タオルを濡らし首に巻くと、不思議と元気が蘇り、再び歩き続けることができました。まさに「砂漠のオアシス」です。
 そして遂に頂上。雲上に見え隠れする山々、はるか下方に見晴らせる景色に、登りの苦痛は一瞬にして消え、天国に少し近づけたかのような神々しい気持ちがし、また次の挑戦へと誘われます。

 ところで、「砂漠のオアシス」で思い浮かぶのはシルクロード。「もっと若ければシルクロードを巡る旅もしてみたかった」と夢を馳せます。
 その昔、世界交易の要地だったシルクロードのオアシス都市は、人種、国籍、宗教、老若男女を問わず、あらゆる人々が旅の途上で憩い、交流しあった平和な聖地だったのではないでしょうか。
 現代では宗教・人種・国籍、信条の違いから、共存さえできぬかのように争いが絶えないのは何故でしょうか。
 私たちの日々の暮らしでも貧富の差、考え方の違い、病気や怪我などの悩みや都会の喧騒・人間関係のストレスから、家族間でさえいさかいが増え、日々暗いニュースばかり目に付き心の傷が絶えません。
 一見仲良さそうに振舞っている私たち夫婦にも、ちょっとした揉め事が途絶えることがありません。でも毎週のミサで、晴佐久神父様のお話を聞くようになってから、何故か二人とも、心癒され「だいじょうぶだよ」と励まされ、新しい週を歩み続ける元気を得ることができるようになりました。
 多摩教会は、私たちの心のオアシスとなりました。このオアシス、自分たちが救われるだけでなく、ひとりでも多くの方に味わって貰いたく仲間を増やせたらと願っています。

 教会に通うようになって思い起こしたことに、ボランテイア活動があります。
 学生時代、長崎で英会話教室の教師だったフランス系米国人セイガン夫人の教えです。
 「奉仕活動をする時間のない社会人は寄付金や現物寄付を! 寄付できなくとも時間と力のある学生たちは労力奉仕を!」と呼びかけ、当時頻繁に寄港していた米国海軍の軍艦が港に着くたびに、水夫たちを募ってバスを仕立て、孤児院の建物のペンキ塗りや慰問に駆り出していました。
 われわれ学生は通訳兼助手として参加。英語の実習にもなり、楽しみながらみんなに歓迎されるボランテイア活動を体験しました。
 多摩教会でも活発に続けられているボランテイア活動に、改めて向き合ってみたいと思っているこの頃です。

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英 「一緒にいるよ」

一緒にいるよ

主任司祭 晴佐久 昌英

 3月に釜石を訪問した際、このたびNPO法人となった「カリタス釜石」から、被災地でのボランティア活動のために新たに必要となった中古のワゴン車購入資金を依頼されたため、この誌上でも皆さんにご寄付を呼び掛けましたが、ひと月で無事に予定金額が集まりました。おかげさまで4月24日に、釜石へ直接お届けすることが出来ましたのでご報告するとともに、ご協力いただいた皆さんに心より御礼申し上げます。

 「ひと月以内に耳をそろえて持ってまいります」と、釜石ベースのスタッフに大見得切ったはいいものの、希望額が180万円という大金でしたので、果たしてどうなるかと思っていましたが、予想以上に皆さんが協力してくださり、結果的には245万円集まりました。多摩教会の皆さんはもちろん、ホームページ「福音の村」でも呼びかけたため、全国から、また海外からも送金してくださり、中には「クリーニングを我慢して」とか、「ガソリン代を節約して」という方もいて、頭が下がりました。

 復興にはまだまだ程遠い現状ですが、一方で応援したいという思いもまだまだあるということを知らされて、うれしかったです。ずっと続けてきた「神父がみんなの義捐金を直接届けに行く」という方法も、そんな皆さんと被災地をつなぐという意味で、それなりに効果的であることも改めて実感しました。お訪ねするのは、「思っているよ、一緒にいるよ」という思いのしるしであり、それこそが最も必要なことなのです。

 ワゴン車資金を受け取ったカリタス釜石のスタッフ一同は大変喜んでおりましたし、あっという間に集まったことにとても驚いていました。そして何よりも、自分たちが忘れられていないと感じることができたと、感激していました。

 その夜、ベースのスタッフみんなをお寿司屋さんに連れて行って激励会をしましたが、席上、ベース長がしみじみと言っていました。
 「活動が理解されずに落ち込むことや、先が見えずに不安になることもあるけれど、こうしてみんなに支えられていることを知ることで、何よりも元気が出ます。こうして会いに来てくれるだけで、どんなに大変でも大丈夫、きっとやっていけるって思えるんです」

 試練のとき、人は無力感にとらわれます。その試練が長く続くと、被災者はもちろん、被災者支援をしているスタッフやボランティアたちの心にも、無力感や徒労感が忍び込んできます。そんな現実を前に何もできない私たちもまた、いつしか無力感に支配されていきます。そんなときに何よりも大切なのは、「直接会うこと、一緒にいること」です。
 「人が独りでいるのは良くない」(創世記2.18)
 これからも、訪問し続けようと思っています。

連載コラム:「スローガンの実現に向かって」第29回

連載コラム「スローガンの実現に向かって」第29回
「歌は最高の祈り、音楽は聖霊の湧き出るオアシスの泉」
私の信仰告白として

稲城地区 小俣 浩之

 聖霊降臨の祝日を迎える頃の季節が大好きです。
 瑞々しい若葉が生い茂り、優しい日の光がきらきらと輝いて、新しい息吹に満ち溢れ、まさに聖霊が天から降り注いでくるようです。そんなとき、天上で奏でられる優しい音楽に包み込まれるような気持ちになります。
 そして多摩教会というオアシスに近づけば、噴水のように飛び散る聖霊の飛沫をいっぱい浴びることになります。

 元来怠慢な私は、ときどきいろんなことがものすごく億劫になったり、煩わしくなったりもします。
 「このところ仕事、決して暇ではないしね、仕方ないよ」とか自分で言い訳を勝手に作りながら、ときには重い足を引きずりながらも、なんとか多摩教会にたどり着く。
 マリア様の前で挨拶をし、ミサにあずかり、次第に心が軽やかになっていく。ミサの後には教会学校の子供たちに囲まれて、一緒に歌を歌う。教会学校の子供たち、目をきらきら輝かせながら座っている。子供たちのすぐそばにイエス様がいらっしゃるのを感じる。聖霊に満たされる瞬間。
 そして疲れていた私はいつしか再生している。

 歌は祈り。
 祈る心とともに歌を歌うと、ものすごく透明な気持ちで神様の前に立てます。
 そんな心を子供たちの中にも育みたい。音楽を通して子供たちの感性も磨きたい。人々を柔らかく包み込む音楽のような優しい心を持ち続けて欲しい。
 そんな想いもあって、もう10年以上、多摩教会の聖劇を子供たちと一緒に作ってきました。

 新しい曲を作ろうとして恵み豊かな歌詞の言葉を前にしたとき、突如として優しい旋律が聖霊とともに天から降りてきます。
 天が開き、天上の音楽が微かに聞こえてくるようなその一瞬が訪れるまで、ピアノの前で悶々とする。聖劇の練習開始が迫っている。けっこう苦しい時間となります。しかし、この作業は召命だと思い、聖霊とともに運ばれてきた旋律、どこかに飛んで行ってしまう前に、なんとか音符というかたちに置き換えていく...。
 「ああ、この旋律、この歌は教会学校のあの子の声にぴったりだ」、
 「このメロディを教会学校の子供たちが全員で合唱したら、イエス様もきっと喜んでくれるだろう」、
 そんなことを思いながら、聖霊が耳元まで運んでくださった旋律をひたすら楽譜に書き留める。
 聖霊の湧き出る泉となる音楽の力、信じています。

 先日、多摩教会で洗礼を受けたばかりの旧友が、初めてミサで答唱詩編を独唱しました。たまたまその日は私がオルガンを担当。
 数十年前、高校時代に彼と始めたささやかな聖歌隊。いまは建て替えられてしまった昔の校舎の片隅にあった小さな聖堂での練習のことがよみがえる。あのときも私はオルガンを弾いて、彼の伴奏をしていた。
 私は自分の信仰を見つけ出す苦労を知らない幼児洗礼。彼は長い間探し続け、悩み続けていた。
 長い長い道のりを経て、その彼がいまや洗礼を受け、ミサで答唱詩編を歌っている。多摩教会の聖堂全体に彼の声が響き渡る。満を持して洗礼を受けた彼の歌声、祈りと信仰の証しに聞こえました。

 歌は最高の祈り。神に感謝。

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英 「光と、ことばと、水と、パン」

光と、ことばと、水と、パン

主任司祭 晴佐久 昌英

 ご復活おめでとうございます。新受洗者のみなさん、本当におめでとう。そしてすでに洗礼を受けられたすべての信者のみなさんに、改めて受洗おめでとうと申し上げたい。もうだいじょうぶです。みなさんは、神に救われました。
 
 洗礼式を含む復活徹夜祭は、4つの美しいシンボルで飾られています。
 一つ目は、光。
 光のない世界は考えられません。神は永遠の恩寵として光を創造し、限りない愛を持ってキリストを輝かせました。人を閉ざしているあらゆる闇を吹き飛ばすためです。
 司祭は復活のろうそくに新しい火をともすとき、高らかに宣言します。
 「輝かしく復活したキリストの光が、心の闇を照らしますように」
 みなさんの心にともった復活の光は、決して消えることなく輝き続けます。

 二つ目は、ことば。
 世界は神のみことばによってつくられました。そのみことばは、すべての神の子に「おまえを愛しているよ」と語りかけています。みことばであるキリストは、聖書を通して「おまえを永遠に愛しているよ」と語りかけています。
 神の救いの歴史と、主の復活の出来事が聖書で読まれたあと、司祭は説教において宣言します。
 「この救いの歴史は、みなさんにおいて完成しました。この主キリストは、みなさんのうちに復活しました」
 みなさんはみことばによってつくられ、みことばにおいて救われているのです。

 三つ目は、水。
 いのちの水、誕生の水、清めの水です。神から流れ出て、人を満たし、生きるものとする水です。みなさんは、「だれでも渇いているものはわたしのもとに来なさい」というキリストのもとに来て、この水に沈められ、この水から新たに生まれたのです。
 司祭は受洗者一人ひとりの名を呼び、水を注ぎながら宣言します。
 「わたしは、父と、子と、聖霊のみ名によって、あなたに洗礼を授けます」
 みなさんはその時、ほんとうの意味で生きるものとなりました。

 そして四つ目は、パン。
 神の愛の目に見えるしるし、キリストのからだであるパンです。受洗者にとっては初聖体拝領となるこのパンを食べることこそ、神の子の生きる意味であり、キリストの家族の一致の実現です。まさに「このパンを食べる者は永遠に生きる」のです。
 司祭は一人ひとりにパンを示し、「いままでつらかったね、ほんとうに、ほんとうによかったね」という思いを込めて宣言します。
 「キリストの、からだ」
 みなさんはこのパンを食べ、ついに神とひとつになりました。

 繰り返し、万感の思いで申しあげます。
 「洗礼おめでとう!」
 これ以上におめでたいことは、この世界には存在しません。

連載コラム:「スローガンの実現に向かって」第28回

連載コラム「スローガンの実現に向かって」第28回

「帰国中年が出会ったオアシス」

日野・野猿地区 渡邉 顕彦

 「帰国子女」という言葉がありますが、日本国籍ながらも外国で生まれ育ち、齢40近くなった最近ようやく帰って来た私は、「帰国中年」というのがよりふさわしいでしょう。その帰国中年がどのようにして多摩カトリック教会に辿りついたのか、以下書かせていただきます。

 私が帰国したのは震災直前ですが、洗礼はその1年ほど前、カリフォルニアにあるプロテスタントのバプテスト系教会で受けておりました。カトリックではありませんでしたが、この南部バプテストの教会でも霊的に成長させていただいたと感じているので、帰国後も当然プロテスタントの教会に所属すると思い込んでいました。

 ただ社会全体の宗教に対する見方、そして教会内の空気も、日本と米国では相当違います。最近、米国で日本人クリスチャンの支援にあたっている方から残念な話を聞きました。米国でプロテスタント教会に入った日本人は帰国するとそのほとんど、約8割が所属教会を見つけられず、信徒の集いから離れてしまうそうです。昨年初めの私も帰国後一年経っても所属教会が決められず、あせっていました。

 そこで、教会を離れるくらいだったらせめてカトリックも見ておこうと、(おかしな言い方で申し訳ありませんが)当時の私としては一大決心に至ったのです。幼少時私がカトリック信者が大多数の国、フィリピンにいたということと、成人してから幾人かのカトリック信徒の方々との出会いがあったということもこの決断の後押しをしていたかとは思います。

 まずネット検索すると多摩教会がカトリックでは一番自宅に近いとわかりました。そして多摩カトリック教会ホームページを見ると、入門講座を週に何度も開いているということで、外部への福音宣教も熱心に行っているということが伝わってきました。ただ最初に来た日には、洗礼式の直後で入門講座は開かれてなかったのですが、突然おじゃましたお祝いの席でも神父様や信徒の方々にも温かく迎えていただいて、カトリック教会は敷居が高いという今までの認識を改めさせられました。

 その後入門講座に通い、改宗(転会)もすませました。多摩教会は私にとってはオアシスでありますし、別なたとえだと温かいオアシス、つまり温泉でもあります。日本に帰って、寒い中とぼとぼと歩いていたら突然賑やかな温泉宿が目の前に現れてびっくりしたという感じです。日本的な良さがあり、でも決して閉鎖的にならず常に外部に開かれて成長している、そのような共同体が今の多摩カトリック教会だと思います。