巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英 神父

天国的な会食

主任司祭 晴佐久 昌英神父

 ミサや講演の依頼を受けて全国の教会を訪れる機会が多く、さまざまな小教区を見てきました。いずこもそれなりにがんばってはいるのですが、いくつかの共通した問題を抱えていて、役員の方が思案している姿は見慣れた光景です。たとえば、信者が高齢化して若い人が少ないとか、新たに洗礼を受ける人がほとんどいないとか。なかでもよく聞く悩みは、「信者同士の関りが希薄でミサが終るとみんなすぐに帰ってしまう」というものです。確かに、よほどの大教会でもない限り、日曜日の昼過ぎてもなおにぎやかな教会はほとんど見かけません。むしろ駅前の喫茶店が親しい信者同士でもりあがっているという話を聞くこともあります。
 日本のカトリック教会は、まず宣教師に聖堂を建てていただき、神父様にさあどうぞと招いていただき、手取り足取り教えていただき、ありがたく秘跡をいただきと、何でも「いただく」教会として始まったので、何もいただけないならもう帰ります、というのは普通の信者の普通の思いなのかもしれません。それにそもそも、ミサが終ったころは当然おなかもすいているわけで、さあ帰ってお昼にしようというのもごく自然な話。せっかく集った信者さんたちが、ミサの後も今ひと時教会に残って親しく交わるというのは、そう簡単なことではないようです。

 ところが、多摩教会に来てみたら、なんと信者さん相互の奉仕による軽食サービスがあるではありませんか。ミサの後、ごく当たり前のようにみんなホールに集って、親しくおしゃべりをしながら一緒にお昼を食べている様子に感動しました。当人たちには見慣れた光景かもしれませんが、こんな天国的な会食を実現している教会は滅多にあるものではありません。久しぶりに会う方と話が弾んだり、たまたま同席した人同士が紹介しあったり、これこそ教会家族の食事というべきでしょう。さすがに信者たちが自らの手で立ち上げた多摩教会、単に「いただく」ばかりでなく、互いに「差し上げる」という教会の本質が生きている教会だとの感を強くしました。
 考えてみると、教会の本質は一緒に飯を食うというところにあります。イエス自身が常に宴の真ん中にいましたし、従う婦人たちはそれぞれのものを出し合って旅する共同体の食事を支えていました。イエスと弟子たちの一致の極みである最後の晩餐においてイエスは、「この食事をしたいと切に願っていた」と言い、「この食事をこれからも行いなさい」と命じます。復活の主はエマオに向う弟子たちに現れて食事を共にし、湖のほとりでは朝食を用意し、弟子たちの真ん中に現れたときには「何か食べ物があるか」と尋ねて魚を食べます。初代教会が「家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし」ていたのは、ともに食事をすることこそが、イエスとひとつになり、信者がひとつになり、教会が神の国の宴の目に見えるしるしになるための、最良の方法だと知っていたからです。

 いうまでもなくその教会家族の食事はミサとして実現しているわけですが、その意味では軽食サービスの食事は、実はミサの一部なのです。聖体拝領した信者たちが、その喜びを互いに分かち合い、今ひと時教会という家族を味わう食事ではないでしょうか。
 そうは言っても、奉仕する人たちの努力は並大抵ではなく、長年続けているうちに手伝う人も減り、体力的な問題もあって、このまま続けていけるだろうかという声も上がってきました。そこで以前より各地区を中心に話し合いを重ね、担当者で相談した結果、それでもなんとか工夫を重ね、できる範囲でもう少しがんばっていこうということになりました。軽食サービスが各地区で輪番になっているのは、互いに仕えあい、奉仕し合うことに意味があるからです。ぜひ、みんなでこの天国的な会食を大切にし、誇りにしていきましょう。いっそう多くの人に食べていただきたいですし、そのためにも新たにお手伝いくださる方を求めています。どんなお手伝いでも結構ですから、お申し出ください。忙しい中、真心で奉仕している信者の姿は、何よりの宣教でもあります。ご聖体でイエスさまに食べさせてもらった信者たちは、イエス様と共に食べさせる側になっていくのです。

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英 神父

教会ショップ「アンジェラ」

主任司祭 晴佐久 昌英神父

 子どものころ、家族みんなで通っていたのは、文京区の本郷教会です。三角屋根に十字架の立つごく普通のこじんまりした教会でしたが、幼いころはそこが世界の中心のように思っていました。
 教会の入り口に十字架やロザリオを売る小さな売店があって、そこで毎週日曜日のミサの後、両親がカードを買ってくれるのが何よりの楽しみでした。「ご絵」と呼ばれるそのカードは、それぞれにイエスさまやマリアさまをはじめ天使やさまざまな聖人が描かれていて、確か一枚五円か十円だったと思います。ゆりの花に囲まれた聖母の優しい横顔や、幼い子どもを背後から守る守護の天使の真っ白い翼など、うっとりと眺めていると母がうれしそうに聞くのです。「どれがいいの?」。プレハブ作りの決してきれいとは言えない売店でしたが、そこも確かに天国の窓でありました。

 主任司祭になり各小教区を担当するようになってからは、ごく自然な思いで、どこでも売店を設立してきました。高幡教会では「教会売店・ミカエルショップ」、高円寺教会では「教会案内所・天使の森」。そしてこのたび、多摩教会でも「教会ショップ・アンジェラ」を始める運びとなりました。いずれも天使に関る名称をつけてきましたが、そこには、たとえささやかな売店であっても、だれにとっても天国の窓であってほしいという願いが込められています。
 実際、売店が教会との窓口になったり、福音との接点になったりすることは決して珍しいことではありません。そこで買った一枚のカードを送ったらそれがきっかけでキリスト教を知ったとか、そこで出会った一冊の本のおかげで魂が救われたというような話をたくさん知っています。中には、教会の前の道を歩いていて売店があるのを知り、何気なく立ち寄ったのがきっかけで教会に通うようになり、やがて洗礼を受けたという人もいました。売店で店員の信者さんと知り合ったり、買いに来た人同士が出会ったり、不思議なご縁のきっかけがたくさん秘められているのも事実です。
 そこで、売店を担当してくれるスタッフや、普段売り子になってくれる受付のメンバーには、いつもこう言っています。「ここは、福音宣教の最前線です。売店という窓を通して天国を知る大勢の人のために奉仕してください。品物はもちろん、みなさんの笑顔、一声かける明るい声、一杯差し出す温かいお茶が、天国の入り口になるように」。楽しくも尊い奉仕ですから、お手伝いしたい方はぜひお申し出ください。

 アンジェラでは、信仰を深めるための本やCD、ロザリオ、おメダイなどの小物を扱っています。人気のトラピストガレットも販売します。子供向けの本などもあります。利益はすべて教会会計に寄付されますので、どんどんご利用ください。
 主力商品は、何と言っても主任神父さまのサイン入り著書です。説教集やエッセイ集、詩集など、店頭に並んでいるものはすでに一言添えて、サインがしてあります。プレゼントする場合など、加えて宛名をサインして差し上げると喜ばれます。その場合は、神父をつかまえて書いてもらってください。二種類の「日めくりカレンダー」もあり、小さな贈り物として人気がありますが、これは破れやすいビニールでパッキングされているのでサインが入っていません。必要ならば、自分で破れないようにそっと開けて、サインしてもらってください。
 また、晴佐久神父がFEBCというラジオ局で半年間お話をした番組のCDもあり、字を読むのが大変な人や、病床で聞く方に最適です。一般の人でも聞ける内容です。晴佐久神父監修で俳優の滝田栄さんが朗読してくれた聖書のCDもあり、これは心がざわついている時におすすめ。車の中で聞くと心が落ち着くという人もいました。
 ご病気の方向けには、以前ここでご紹介した小冊子「病めるときも」と、「おお、よしよし」の載っているクリスマス小冊子「クリスマス本当のはなし」があります。これにはサインしていませんが、することも出来ます。
 今年はあの「聖書と典礼」のオリエンスからクリスマスカードを出しましたので、ぜひご利用ください。聖母子像のカード「みんなのひかり」と、クジラのサンタさんの絵葉書「大きな贈り物」です。「うちの教会の神父さんが描いたカードです」と書いて出すのにちょうどいいでしょう。そのときはぜひ、「多摩教会のミサに来てみませんか」と書き加えていただきたい。
 ニューズの四月号のカットに使われている赤ちゃん天使の色紙「生まれて感謝、笑顔で賛美」も、サインして遊び印を押しておきましたので、プレゼントに使ってください。もちろん、玄関に飾っていただいても結構です。隣の奥さんが「あらかわいい」と言ってくれたら、しめたもの。「うちの教会の神父さんが描いたんですよ」「まあ、楽しそう。わたしも行ってみようかしら」なんていう展開を夢見ます。
 教会ショップ「アンジェラ」の店頭に並んでいるのは、福音の種なのです。みんなで種まきをすれば、神さまが天国の花園を見せてくださるでしょう。

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英 神父

本物のよろこび

主任司祭 晴佐久 昌英神父

 この夏は、二度、奄美大島へ行ってきました。七月には皆既日食を見に、八月には例年の無人島キャンプへ。どちらも無事終ってほっとしているところです。
 皆既日食は一年前から綿密に計画していたこともあり、海上保安庁から三つの海域の航行許可を取っていたので、当日雲間を探して船で喜界島沖へ向い、薄日ではありましたがなんとか見ることが出来ました。他の海域や島々は悪天候でほとんどの人が見ることが出来なかったようですが、我々はちゃんとダイヤモンドリングやコロナを見ることの出来た数少ない日本人ではないでしょうか。
 皆既日食を体験して一番感じたのは、単純に「おそれ」です。恐怖というのとは違う、たぶんこれが「畏怖の念」という感覚なのでしょう。日ごろすべて人間中心に生きていて、人間の力で何でもできるような錯覚に捕らわれているけれど、さすがに太陽が暗くなると何か偉大で圧倒的な力を感じて、「人間ごとき」はひれ伏すような気持ちになりました。一度この感動体験を味わうとどうしてももう一度体験したくなるらしいとは以前から聞いていて、そうは言っても自分は無縁だろうと思っていたら、すでに仲間内では来年の皆既日食を見に行こうという計画が進んでおり、今度はイースター島かクック諸島ということで、気がつけば立派な「日蝕ハンター」になってしまいました。

 無人島キャンプの方は同じ島に毎夏通って、もう23年目です。よくまあ飽きずにと思われるかもしれませんが、これもある意味創造主の偉大な力を体験しに行っているようなもので、年に一度は人間の力を離れて、海と空と風に包まれています。全くの無人島で珊瑚礁の海に潜り、満天の星空を仰いで過ごす一週間は、これまた一度味わってしまうとどうしてももう一度という感動体験であり、隊員たちは無理して休みを取っては毎夏繰り返し参加しています。
 今年うれしかったのは、十年ほど前のオニヒトデの大繁殖が原因で絶滅していた珊瑚が、まだ2割程度ではあるけれど確実に復活しているのを確認できたことです。来年は3,4割まで戻るでしょうし、この分だと5年もすれば7,8割は復活しそうです。サザエはあまり獲れなかったけれど、銛で平目を二匹突くことが出来ました。大きな五色エビを捕まえ損ねたのも忘れられません。早朝、前の浜で大きな遊泳物体を目撃して騒ぎになり、付近でアオザメが数匹出没したという情報と合わせて青ざめたところで帰ってきましたが、いずれにせよ大自然相手というのは本当に気持ちのいい体験で、とてもやめられるものではなく、ベースキャンプの宿はまた来年分も予約済みです。

 そんなキャンプに、今年はなにやら不穏な気配が漂いました。ベースキャンプでは準備と片付けのため前後二泊ずつするのですが、その準備中、付近を警官がうろうろするのです。その島には警察もなく、超過疎地の集落をパトカーが見張っているなんて経験のない異常事態です。しまいに、キャンプ用品を並べて庭で作業している様子を制服警官が写真に撮って行ったそうで、宿のおやじが大変不審がっていました。
 無人島から戻って、片付けの時にその原因が分かりました。7月の日食の時に近くのホテルで、元アイドルの有名女優が覚せい剤を吸ったというのです。あたりはサーファーの若者が集るエリアということもあり、警察は警戒していたというわけです。
 その後の大騒ぎは、ご存知のとおり。先日はその女優が保釈され、涙の会見をしている姿を見て胸が痛みました。たとえ実刑を受けても、完全に覚せい剤と縁を切れるのは百人に一人とさえ言われているからです。確かに手を染めたのは犯罪ですが、麻薬や覚せい剤は、一度体験してしまうと本人の力では逃れられなくなる、残酷な快楽です。あまりにかわいそうで、ため息が出ます。
 いっそ、信仰という本物のよろこびを学べるぼくらのキャンプに来ればいいのに。そうすれば同じ中毒でも、日食中毒や無人島中毒になれるのに。覚せい剤なんかよりよっぽど気持ちよくて、よっぽど感動して、やみつきになりながらも最高の幸せを知ることが出来るのに。日食のときなんか、悪天候のホテルにいないで一緒に来れば、「太陽と共に捧げるミサ」まで出来たのに。

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英 神父

天国の応接室

主任司祭 晴佐久 昌英神父

 この巻頭言のタイトルも、「天国の受付」「天国の入門」と来て、今度は「天国の応接室」ではいささかくどいような気もしないではないが、そもそも教会とは天国の出張所みたいなものなのだから、当たり前のこととして受け止めていただきたい。
 出張所であれなんであれ、およそ人に接する組織の建物には、必ず応接室というものがある。大抵は入り口付近の一等地にあって、どうぞこちらへと中へ通されると、真ん中に革張りの応接セットがあり、壁にはありがたそうな絵がかかっていて、眺めていると受付嬢がお茶を持ってくる。それは、多くの場合は形式的な応対であるとは言え、人間関係の基本として欠くことのできない礼儀であり、あなたを大切に思っていますよという愛情表現でもある。

 多摩教会に来て困ったのは、この応接室がないことである。
 司祭を訪ねてくる人は多い。教会は初めてという人が話を聞きたいと現れることもあれば、古い信者さんが改まって相談に来ることもある。掲示板を見て立ち寄ったという人もいれば、遠くから一度来てみたかったと訪ねてくる人もいる。若い二人が輝く顔で結婚の挨拶に来たり、年配の方が深刻な顔で家族の病気のことで来たり、雑誌の編集者が怒った顔で原稿を取りに来たり、教会委員長が優しい顔で司祭を励ましに来たり。
 今は仕方なく、落ち着かないホールの片隅で応対しているが、中には人に聞かれたくないことで相談に来る人もいるし、それこそ心の病を抱えて必死に教会へ来た人で、だれにも会いたくないという人もめずらしくない。洗礼前の面接では魂の会話が交わされるし、ご遺族が故人の話で涙をこぼすこともある。福音を語り、共に祈り、そのままそこでゆるしの秘蹟を授けることもある。
 やはり独立したおもてなしの部屋が必要だということで、司牧評議会で二ヶ月にわたって話し合い、このたび承認を得て応接室を設けることになった。具体的には、現在受け付け室として使っている部屋を応接室として用い、受付はホールの一隅に新たに設け、前庭側に受付の窓を開けるというプランである。現在の受付は外から分かりにくく中からも外が見えないので、新設すれば分かりやすく見えやすくなり、教会の顔として外部に向って大きな役割を果たすことになるという意味では、一石二鳥でもある。
 そのぶんホールが狭くならないよう同じ面積ぶんのホールの物入れを取り外すことや、合わせていくつかの扉を使いやすく付け直すなどの修理を含め、二百九十万円で発注した。工務店と何度も交渉した末の破格のお願いなので、みなさんのご了承をいただきたい。そして、人々を大いに受付け、大いに応接していただきたい。

確かに教会へは司祭を訪ねてくる人が多いが、その真の動機は救われたいという思いなのだから、最終的にはキリストに会い、神の愛に出会えればいいのである。その意味では、神との出会いを取り次ぐ使命を持つキリスト者は皆、本来は応接される側と言うよりは応接する側であるはずだ。それは、すべての人の心の叫びに応じ、すべての人の苦しみに接するために命を捧げた、「イエス・キリストの応接」に連なることなのである。
 生きる元気さえなくした人がようやく教会にたどり着き、恐る恐る構内に足を踏み入れると、受付の窓が開いていて、中から笑顔で挨拶される。どうぞ、どうぞと招き入れられ、応接室に通されると、そこにはくつろげる椅子があり、明るい花が飾ってある。すぐにお茶とお菓子が出て、ほっとした気持ちになる。一口飲むと、とてもおいしい。ああ、来てよかったと思っているところへ、扉が開き、イエス様が入って来て言う。「ようこそいらっしゃいました。安心してください、もうだいじょうぶですよ。」
 その人は、その日を、その部屋を、飾ってあった花の色に至るまで、一生忘れない。

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英 神父

病床も聖堂

主任司祭 晴佐久 昌英神父

 来週、ドン・ボスコ社から「病めるときも」という小冊子が発行されます。「病と向き合うすべての人へ」というサブタイトルからも分かるとおり、病気の人を力づけ、大切な信仰を支え、つらい思いにそっと寄り添うために編集されたものです。ご病人へのお見舞いとして差しあげたり、ご病人のために祈るときなどに最適ですので、ぜひご一読ください。受付にて、百円で販売します。
 巻頭に、「夜の病室のあなたに」という文章を載せました。「こんばんは。晴佐久神父です。」という一行に始まり、自分の病気の体験に触れ、病のときは神の愛に目覚める恵みのときだと語り、「今夜はぐっすり眠れますように。おやすみなさい。」で終わるという内容です。何故そのような、「わたしが、あなたに」語りかける文体にしたかというと、それが病気の時最も必要なことだからです。
 病気の時、人は孤独です。痛みも不安も、ひとりで背負っている気持ちになります。病状が悪化する中で、時に神に見捨てられたような思いにとらわれることだってあります。ですから、病気の時にありがたいのは、その苦しみを一緒に背負ってくれる家族であり、そのつらさが分かるよとそばにいてくれる友人であり、「わたしはあなたを愛している。いつもあなたと共にいて、その苦しみを共に背負っている」と語りかけてくださるイエス・キリストの存在なのです。一冊の小冊子で語りかけることで、孤独なご病人がそんな救い主の語りかけを聞き取ってくれればと思ったのです。

 今月から、多摩教会の病床訪問チームを発足させました。まだ始まったばかりですから、関心のある方はぜひチームに加わってください。教会は、キリストの家族です。家族の病床を訪問し、ご聖体をお届けするのは当然のことです。キリストの家族として最も大切なことは家族の食事であるミサを共にすることですが、だれよりもミサで力づけられる必要のある病気の人が、そのミサに来ることができません。部屋で寝ている病気の子どもの枕元にお母さんがお粥を運ぶように、ご聖体をお運びするキリストの家族が必要です。
 もちろんお運びする第一人者は司祭ですし、現にお運びしていますが、教会家族みんながもっと普通に、もっと足しげくお運びするならば、教会はいっそう暖かい家族になっていくことでしょう。ご聖体は「聖体奉仕者」でなければ運べないと思っている方も多いようですが、主任司祭が任命すればだれでも運ぶことができます。たとえばご主人が病気になってミサにこられなくなった時に奥様が、あるいはお母様が高齢で外出できなくなった時に息子さんが、予め許可をもらって聖体奉仕者となることが可能です。毎週、主日のミサで聖体拝領の時にご病人の分も預かり、ミサ後にご自宅でお授けすればいいのです。
 そのようなご家族がいない場合やお一人で入院している場合などは、教会のお友達や地区会など近隣の教会家族がお運びしたらいいでしょう。それらをみんな含めて、病床訪問チームです。

 元気な時は当たり前のようにミサに通っていた人でも、ひとたび病気になると、聖堂で共に礼拝できることがどれほどありがたいことかを思い知ります。ミサに行けないことを申し訳なく思う人もいるし、教会を引退してしまったかのようなさみしさを感じる人もいます。聖堂に集れた元気な人たちが、そんなさみしい思いを抱えている大勢の家族のことを忘れてミサを捧げているのでは、おなかをすかせている病気のわが子に運ぶお粥を忘れているようなもの。明日は我が身なのですから、身近にそんな教会家族がいないか、お互いに心を配ることにしましょう。教会は、神の愛のしるしなのですから。
 病床であっても、主日の午前十時に、聖堂のミサに心を合わせてミサに連なることができます。「聖書と典礼」を広げ、十字を切り、集会祈願を祈り、答唱詩篇を歌い、聖書を朗読し、信仰宣言をし、共同祈願を捧げ、奉献文を読み、主の祈りを唱えて静かに待つ。やがて、昼過ぎには聖体奉仕者が午前中のミサの熱気を帯びたままやってきます。出来たてほやほやのご聖体を携えて。そして、今日のお説教はこんなでしたよと話し、ご聖体を授けてくれる。「わたしは、あなたを救う」と、枕元へキリストご自身が来られたのです。何と幸いなことでしょう。その時、病床はもはや立派な聖堂です。

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英 神父

天国の入門講座

主任司祭 晴佐久 昌英神父

 今月から、入門講座を始めました。金曜夜、土曜昼、日曜ミサ後です。すでに様々な人が集まっていますし、お世話する入門係チームも出来つつあります。ただ、この「入門講座」という名称は、誤解を招くこともあるかもしれません。
 「入門」というとこれからがんばって練習して上達しようというニュアンスですし、「講座」というとしっかり講義を聴いて学ぶというイメージです。そういう要素がないとは言いませんが、この集いで第一に目指しているのは、まずは直接福音を聞いてうれしくなり、実際に神の愛を体験して喜んでもらいたいということなのです。よく車のセールスで「今度の土日は体験試乗会」とか宣伝していますが、まさにそんな感じ。あれは別に、車の乗り方を練習するのでもなければ、エンジンの仕組みを勉強するのでもなく、ともかく乗ってもらいさえすればその良さを分かってくれるはず、というものでしょう。教会も同じです。ともかく福音を聞いてほしい、一度でも味わってもらいたい、イエスに出会ってくれればきっと分かってくれるはず、という思いです。言うなれば「福音体験会」なわけですが、それじゃ何だか分からないので、やむなく入門講座と呼んでいるに過ぎません。

 ですから、ぜひ、そのような集いであると、そのような集いを求めている人に知らせてほしいのです。一度だけでも構わないし、都合に合わせて来るのでもいい。講座の内容は、それこそお客に合わせてカタログを出すセールスマンのように、一人ひとりが求めているものを察しながら接しますので、どんな事情の人にでも対応できます。苦難の中で救いを求めている人、単にキリスト教に興味がある人、孤独の中で居場所を探している人などなど、理由はともかくだれでもが参加出来ることに意味があります。それこそ神が集めてくれた集いですから、必ずだれもが本物の福音に触れることができると、信じています。
 その意味でも、入門講座を、洗礼の勉強会としてだけ捉えてほしくありません。もちろん、洗礼がどれほど素晴らしい恵みであるかを知っているものとして、洗礼について話し、洗礼の恵みにお招きしますけれども、まずはあくまでも神の愛を知るという福音体験です。洗礼は、そのように福音をしっかりと受け止めた者が、やがて神に導かれて自然と受けるものなのであって、始めに洗礼ありきでは、かえって講座に来にくくなる事もあるからです。
 求道者のみならず、最近受洗したけれど引き続き福音を学んで行きたい、という人もどうぞ。きっと改めて、良い気づきや発見があるでしょう。さらには、信者暦は長いけれどここらでもう一度という人も参加できます。ただし、その場合はぜひ一緒にだれか求道者を連れてくるようにお願いします。福音は、それをもう一人の誰かに伝えるお手伝いをしたときこそ、真に受け止められるものだからです。

 いつも思うのですが、入門講座は本当に恵みの場です。そこには常に新たな出会いの喜びがあり、信頼関係が育っていく楽しみがあり、福音に救われる感動があり、やがて洗礼へと実る聖霊の働きが溢れているからです。ですから、講座のお手伝いをする入門係は、そこにいるだけで神の働きを実感できる、まことに恵み多い体験だと言えます。時には、去年洗礼を受けた人が今年は入門係をするということもあります。それこそ、教会の本質をあらわす美しい姿です。
 イエスは、ペトロに教会を託して、宣言しました。
 「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタイ16・19)。
 教会は、天国の門なのです。その意味でいうならば「入門講座」という名称は、文字通りの講座としてふさわしいと言えるのかもしれません。

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英 神父

天国の受付

主任司祭 晴佐久 昌英神父

 着任してひと月が過ぎました。ひとことで言って、至福のひと月でした。新緑滴る多摩の自然に包まれて、ゆったり過ぎる時間。優しい信者たちに囲まれて、さわやかにミサを捧げる日々。ああ、教会っていいなあと改めてしみじみしています。前の教会がいささかあわただしかったので、しばらくは自分のペースを大事にしながらのびのびと福音を宣言していくとしましょう。
 とは言っても、福音を語るには、語る相手がいなくては文字通り話になりません。信徒のみなさんはもちろん、近隣の方々にいたるまでの一つひとつの出会いを大切にすることが始めの一歩です。通りすがりに何気なく立ち寄ってみた人も、救いを求めて勇気を振り絞って電話をかけてきた人も、みんな神様が出会わせてくれた神の子なのですから、ちゃんと出会えばちゃんと聖霊が働いて素晴らしいことが起こります。
 そもそも私たちはみんな、その素晴らしいことによって信仰に導かれたはず。福音を語ることは、恩返しでもあるのではないでしょうか。かつてこの私を福音に出会わせてくれたあの人この人への、さらにはその人を出会わせてくれた、神さまへの。

 このたび、まずは教会の受付を充実させましょうと呼びかけて閉じていた受付を再開してもらったのも、そんな出会いの素晴らしさを教会全体で味わってほしかったからです。教会の受付はとても大切な機能ですし、大きな喜びを秘めています。それは単なる司祭の留守番や戸締りのお手伝いのことではなく、まさに福音への奉仕であり、キリストの教会の使命の本質に関わることだからです。
 心の傷ついた人が恐る恐る教会に電話をかけたとき、受付の人が明るい声で親切に対応してくれたら、どれほど救われた気持ちになるでしょう。興味を持って訪ねた教会で、受付の人が淹れてくれたお茶がきっかけで洗礼を受けたという人も、実際にいます。
 そうなってくると、これはもはやただの電話番などではありません。教会の受付は、そのまま天国の受付なのです。であれば、そこで人々を受け付けているのは実はキリストご自身なわけで、私たちはそれさえ信じてお茶を出していればいいのです。「あとはイエスさまよろしく」って感じで。お茶一杯で人を救うなんて、さすがはキリストの教会の受付というべきでしょう。

 これを書いている今日の午前中、呼びかけに応えて二人のご婦人が受付の奉仕に来てくれました。そこへ、当教会以外の方が別々に三名訪れました。一人は今年洗礼を受けた男性、もう一人は信者暦の長い女性。そのままならそれぞれお祈りして帰ってしまうところを受付が呼び止めて、台所で即席のお茶会となりました。
 ふと外を見ると、また一人たたずんでいます。声をかけると、すぐご近所の女性で散歩中とのこと。立ち話をしているうちに「お手洗いを貸してほしい」と言うので、「どうぞ、どうぞ、うちの教会のトイレは素晴らしいんですよ」と答えたとか。ついでにどうぞと台所に招きいれたところへ、用事を終えた神父が人数分のカステラを持って現れ、にぎやかなお茶会となって話が弾みました。
 話はやがて信仰の話となり、信者たちがそれぞれ抱えている悩みを語り出し、神父がそれに答えて福音を語っていると、突然、そのご近所の女性が感動して涙をぽろりとこぼしました。神父はミサにお誘いし、説教集をお貸しして、ぜひまたいらしてくださいと申しあげました。お貸ししたのは、また会うための作戦ですが。
 受付がいなかったら、このお茶会は永遠に存在しませんでした。

 教会の台所でなくとも信仰さえあればどこでもお茶会は実現できますし、そこで必ず、キリストご自身が福音を語ってくれるでしょう。キリスト者はみんな、天国の受付なのです。

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英「はじめまして」

はじめまして

主任司祭 晴佐久 昌英

 はじめまして。
 多摩教会のみなさんに、そんな心躍るご挨拶をさせていただきます。
 すべてはこの「はじめまして」から始まることに、私はいつも感動しています。
 生まれたばかりの赤ちゃんを抱きしめて、「はじめまして」。
 かけがえのない親友になるとも知らずに、「はじめまして」。
 数年後に神のみ前で愛を誓い合う二人が、「はじめまして」。
 いつの日か神の国の完成の日に、天の父のみもとで共に感謝と賛美を捧げることになる信徒と司祭が、「はじめまして」。
 あらゆるすばらしい未来が、この「はじめまして」のうちに秘められています。すべての「はじめまして」は、神の結んだ神のわざだからです。

 神は、神の国の完成の日に向けて、今もいつも創造のわざを続けておられます。人間は、その創造のわざの大切な協力者として造られました。神はある特別な力を人間に与え、人間がそれを用いて創造のわざに参与するようにお定めになったのです。
 その特別な力とは、互いに愛し合う力です。
 私たちが愛し合い、赦し合い、祈り合い、助け合うとき、私たちは神の創造のわざに奉仕しているということです。神が私たちを出会わせるのは、ひたすらそれを願ってのことにほかなりません。
 だれかと出会い、「はじめまして」と挨拶するとき、それは単に人と人が初めて顔をあわせているだけのことではなく、その二人の出会いのうちに今まさに神の国が始まっているという、心躍る瞬間なのです。

 前任の高円寺教会でも、本当にすばらしい「はじめまして」が溢れていました。司祭、信徒、信徒の家族、求道者、様々な人同士の様々な出会いによって様々な「はじめまして」が生まれ、それはある人にとっては神との「はじめまして」ともなり、やがてその人が復活祭に洗礼を受けるなんてことも、たくさんあったのです。
 ある大学生は、たまたま高円寺教会の前を通りかかったとき、にぎやかな音が聞こえてきたのでなんだろうと立ち止まったら、入り口の売店にいた入門係に声をかけられて、ちょうどホールで開かれていた青年たちのライヴコンサートへ案内され、次々と「はじめまして」と紹介されてみんなと友達になり、その日は打ち上げにまで参加して神父から福音を語ってもらい、その後教会へ通い始めました。悩みを抱えて苦しんでいたその彼は少しずつ元気を取り戻し、入門講座にも出るようになり、今年の復活祭に洗礼を受けました。受洗を決心して司祭面接をしたとき、彼は言いました。「あの時声をかけてもらえなかったら、ぼくはどうなっていただろう」。
 私の在任中の六年間に、高円寺教会で洗礼を受けた人は、五百四十一人です。その全員と、私はある日出会ったのです。「はじめまして」、と。ある日偶然のように出会った人と「はじめまして」と挨拶するとき、思わず感動してしまう理由が分かっていただけるでしょうか。

 このたび、多摩教会に受け入れてくださり、本当に感謝しています。これからどんな「はじめまして」が待っているのか、わくわくしています。私はみなさんとの出会いを、神のはからいと信じています。みなさんも、一人の司祭との出会いを神のみこころと全面的に信頼して、共に創造のみわざに協力していきましょう。たくさんの「はじめまして」が溢れる、心躍る教会になりますように。