巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英「たすき君と、哲学者」

たすき君と、哲学者

主任司祭 晴佐久 昌英

 ふと街角で見かけた、まったく見知らぬ人のことが、なぜかいつまでも心に残っていることってありませんか。
 たとえば、あれは確かまだ神学生のころ、羽田空港からモノレールで浜松町に向かう途中、窓の外をぼんやり見ていた時のこと。倉庫街の殺風景なビルの裏手の、錆びた鉄製の非常階段の途中に、作業着を着た中年男性がポツンと腰かけて、遠くの空を眺めている姿が見えました。
 (どんな暮らしをしているんだろう。何を考えているんだろう。これからどんな人生を歩んでいくんだろう・・・)
ほんの数秒見かけただけですし、普通に考えたら何の関係もない人にすぎませんが、そのときはなぜか、いろいろと想像してしまったのです。
 (たとえ一瞬でも、こうして見かけて、気に留めてしまったからには、何かの縁があるはずだ。もしかしたら、神さまが用意してくれた大切な出会いかもしれない・・・)
 そんな思いにさえなって、以来、その時の光景が、ふとした折に甦るのでした。
 (あの作業服の人、どうしているだろう。ただの通りすがりの人として、二度と会えないなんて、なんだかさみしいな)というような、ちょっと切ない気持ちと共に。

 聖書を読んでいると、イエスと関わって救われる多くの人が、「通りすがりの人」であることに気づかされます。
 イエスが旅に疲れて井戸のそばに座っているところへ、たまたま水をくみに来たサマリアの女。イエスが町の門に近づいたとき、ちょうど一人息子を亡くして泣いていたナインのやもめ。イエスが町を通っていたとき、イエスを見ようとして木に登っていたエリコのザアカイ。そもそも、ペトロもヨハネも、最初は、イエスが「湖のほとりを歩いておられたとき」に声をかけられたのでした。
 イエスは、「たまたま」、「目の前にいる」、「救いを求めている人」を救います。
 それこそが、キリスト教の、最も基本的なあり方なのです。
 神の摂理のうちにあっては、この世に無縁な人など一人もいないのであり、たとえ「通りすがり」であったとしても、出会った人はだれでも「神の結んだ家族」だと信じて関わっていくことこそが、神の国を作っていく最高の道なのです。

 かつて、多摩修道院での早朝ミサに車で向かう途中、必ず見かける青年がいました。修道院近くの交差点で信号待ちをしているとき、毎朝、6時13分きっかりに目の前の横断歩道を渡って行くのです。いつも大きな肩掛けカバンをたすきにかけていたので、勝手に「たすき君」と名付け、毎朝会うのを楽しみにしていました。
 たすき君が前を通るとき、車の中で勝手に話しかけます。
 「たすき君、おはよう! どうしたの、この暑いのにマスクなんかして。夏風邪でもひいた? 無理しないで休みなよ」
 「お、新しいダウンジャケットだね。似合うよ。寒いねえ、今度、教会に飲みにおいでよ。ナベでもつつきましょう」
 四季折々に話しかけているうちに、一方的に親近感も増し、いつしか、たすき君を教会に誘うチャンスはないものかと、本気で考え始めていました。
 ところが、あの3・11の日以来、たすき君は、ぱったりと姿を見せなくなってしまったのです。放射能が怖くて関西に引っ越してしまったのか、親が心配で東北の実家に帰ったのか。なんにせよ、ついに声をかけることもできないまま、二度と会えない人になってしまい、小さな後悔だけが残りました。
 神が出会わせてくれた人。
 勇気を持って関わることで始まる神の国。

 あれから3年たち、最近、同じく6時13分に目の前を渡って行く、二代目たすき君とでもいうべき60代?の男性が現れました。白髪交じりの紳士で、いつも空を眺めたり、花に見入ったり、落ち葉を拾って物思いにふけったりする様子がなんともユニークで、勝手に「哲学者」と名付けて、車の中で話しかけています。
 「何をお探しですか? お望みなら、福音についてお話ししましょうか?」
 神が出会わせてくれた人。
 今度は、後悔したくありません。