初金家族の会 10月例会報告

「初金家族の会」10月例会報告


広報: 志賀 晴児

 10月の例会は、14日、聖フランシスコの記念日でした。貧しさを選び、神様の愛と慈しみを全ての人にと説いた聖フランシスコの精神を学びたいと願いながら、初金のごミサに(あずか)りました。ごミサで晴佐久神父様は「フランシスコ教皇様の意向のためにも心をあわせてお祈りしましょう。意向のためにとは、《心をあわせて一緒にお祈りするという、祈りでのつながり、結びつき》を意味するのです」と説明され、この日に相応しいお説教でした。

 ごミサのあと、40人ほどの方が信徒会館に集まり、今回は11月のカトリック死者の月を前に、典礼、広報、霊園担当役員で前の委員長、竹内秀弥さんの教会葬儀とカトリック霊園についての卓話に耳を傾けました。葬儀、お墓のことは、いつの時代でも、どなたにとっても大きな関心事です。イエス・キリストの復活を信じるカトリック信者には、死は永遠の命への門出であり、約束された希望によって悲しみの中にも安らぎを覚える祈りのひとときですが、初めて教会の葬儀に参列された多くの方々にも、しばしば大きな感銘を与えています。卓話では葬儀の手順、慣例など具体的な説明をはじめ、五日市の教会霊園への毎年の共同墓参会のことなど多岐にわたるお話を伺い、出席者からの質問も相次ぎました。

 次回は11月1日(金)に開かれ、「介護について」を予定しています。人それぞれ何時かは、介護するか、介護されるかに直面します。経験者のお話を聞きながら話し合いできればと思っています。


11月の「初金家族の会」は、11月第一金曜日、1日の午前10時のミサ後、11時頃から、信徒会館1階で行われます。

皆さまのご参加をお待ちしております!!

 

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英「岩 波 ホール」

岩 波 ホール

主任司祭 晴佐久 昌英

 岩波ホール。
 その名を聞いただけで、ある特別な感情が沸き起こってきます。ときめき、感謝、そして、敬意。およそ200席の、こじんまりとしたこの映画ホールで、私たちはどれだけ感動し、学ばされ、そして生きる力をもらったことか。靖国通り、神保町交差点角に立つ岩波神保町ビル10階は、映画ファンにとってはもはや、聖地にほかなりません。

 この聖地で最初に観た映画は、宮城まり子監督の「ねむの木の詩がきこえる」という、セミドキュメンタリー作品。1977年夏、ぼくが二十歳の時です。自閉症児の「やっちゃん」と、ねむの木学園の創始者である宮城まり子さんの交流に、心ふるえる感動を覚えました。人と人がつながること、それ以上に貴いことはなく、それこそがキリスト教のすべてだと直感した瞬間であり、自分自身の司祭召命においても大きな影響を受けた映画です。
 そして、何と言っても1979年の「木靴の樹」。エルマンノ・オルミ監督珠玉の名作であり、カンヌ国際映画祭のグランプリ受賞作品です。この映画からは、感動を超えた、聖霊体験ともいうべき影響を受けました。イタリア北部ロンバルディア地方の農夫たちの日常を淡々と描いたドキュメンタリータッチの作品ですが、そこには、目には見えない神のみ心と人間の信仰が、目に見えるごく普通の生活として、奇跡のごとく映っていたのです。素人だけを使った素朴な情景を、自然光だけで撮ったフィルムはあまりにも気高く、ああ、映画の本質は秘跡体験なんだ! と知ったのでした。
 その翌年神学校に入ってからは、なかなか映画も観に行けなくなりましたが、司祭になってからは堰を切ったように聖地巡礼を再開したものです。「TOMORROW/明日」、「八月の鯨」、「サラーム・ボンベイ!」、「コルチャック先生」、「ミシシッピー・マサラ」、「ジャック・ドゥミの少年期」、「森の中の淑女たち」、「山の郵便配達」、ケン・ローチの「大地と自由」、アンジェイ・ワイダの「聖週間」・・・ああ、書ききれない! なんというラインナップ、なんという幸福! 映画評論などを手掛けていたせいもあり、このころは年間100本は見ていましたが、ぼくにとっては、岩波ホールにかかる映画は、特別でした。

 岩波ホールは知る人ぞ知る「ミニシアター」の先駆けであり、日本で初めて定員制・完全入れ替え制を導入したホールです。予告篇のときに企業コマーシャルを流さないとか、一度公開日程を決めたらどんなに客が入らなくとも決して途中打ち切りをしないとか、ともかく映画を愛し、映画を愛する人を愛するという姿勢を徹底して打ち出した、まさに「ほんもの」を感じさせるホールなのです。
 上映される機会の少ない作品をていねいに選び、アジア・アフリカ・中南米の名作に目配りし、女性監督の作品も積極的に紹介することなども岩波ホールの特徴ですが、それらはすべて、創立以来の総支配人を務めてきた高野悦子さんの功績です。残念ながら高野さんは今年の早春亡くなりました。生前、ていねいなお手紙までいただいたことがあります。高野さん、「ある老女の物語」をかけてくれてありがとう! 東京国際映画祭で観て以来、いつかかるかと心待ちにしていたのに、何年たってもどこもかけてくれなかったのを、5年後についに公開してくれたのは、やっぱり岩波ホールでした。

 このたびその岩波ホールから、「木靴の樹」のエルマンノ・オルミ監督の最新作「楽園からの旅人」上映後のトークショーに招かれて、観客の皆さんにお話しできたことが、ぼくにとってどれほどうれしく、誇らしいことであったか、ご理解いただけると思います。
 高野さんの後に支配人を引き継いだのは、岩波ホール前社長の長女、岩波律子さんですが、トークショー当日、岩波さんにお会いしたときに、真っ先にひとこと、申しあげました。「これは恩返しです」、と。
 実際、この日は期間中最高の入りになったことも恩返しでしたし、詰めかけた皆さんに福音を語ることができたことも、何よりの恩返しでした。客席には若い観客もいましたが、あれはかつてのぼくだと思いつつ、心こめてお話ししたのでした。

 「楽園からの旅人」10月4日金曜日まで。岩波ホールにて上映中です。


※:『楽園からの旅人』
 ・ 『楽園からの旅人』公式サイト : http://www.alcine-terran.com/rakuen/
 

連載コラム:「祈りと行動の調和を目指して」

連載コラム「スローガンの実現に向かって」第33回
「祈りと行動の調和を目指して」

諏訪・永山・聖ヶ丘・連光寺地区 清水 祐子

 都立桜ヶ丘公園の緑に惹かれて連光寺に小さなエコハウスを建てて5年目になりました。
 虫の食べ残しを収穫するような家庭菜園と名ばかりのイングリッシュガーデンに手を焼き、園芸書ばかりが増えていくのが悩みですが、聖蹟桜ヶ丘駅周辺にお気に入りの店も増え、ようやく地元の人になってきました。一方、永山駅方面にはめったに行かないので、鎌倉街道沿いにカトリック教会があることを偶然に知ったのは引越しから数年過ぎた頃でした。

 教会学校に始まり、中学校から大学までカトリック学校に通い、海外援助部門の職員として大阪大司教区に勤め、カトリックの世界とのお付き合いは随分長くなりました。ただ「教会に通うこと」を第一義に考えたことはなく、これまでも転勤先にある教会を調べたことはありませんでした。
 今は、WEB上の「聖書と典礼」を読み、仕事を通じて出会った悩んでいる人、助けを求めている人、社会的弱者にされた人に寄り添い、具体的な手助けをすることで精一杯の毎日を送っています。

 数年前の練成会で「祈りが伴わない社会的な関わりは基盤のもろいものになり、実際の行動が伴わない祈りは誠意に欠けるものになる」という話を聞き、非常に合点がいき、それ以来、日々の暮らしのなかで祈りと行動の調和が保たれているかどうかを強く意識するようになりました(内観)。
 新約聖書には赦される基準は祈りでなく行動であることが、随所に示されていますが、マタイ7章21節の言葉は厳しいものです。「わたしに向って『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父のみ心を行う者だけが入るのである」。もちろん「主よ、主よ」と呼ぶことは悪いことではありませんが、神がすべての人々が救われて真理を知ることを望んでおられるように、神への呼びかけが自分の赦しや癒しばかりを求める欲望にとどまることがないようにしたいと思っています。

 最後に、広報委員から「オアシス」というキーワードを取り入れてもらいたいとの依頼がありましたので、使い慣れない言葉ですがすこし考えてみました。
 信仰者は、社会や家庭での言動が神の望まれる姿になるように努力しますが、現実的には神の期待に応えるのはかなりの困難を伴います。実際、神は私に落胆していることでしょう。それでも神との対話を淡々と続けながら社会的な活動を諦めないこと、これが「オアシス」のような気がします。
 参考までにいつも祈りの手引きにしている本を紹介します。いずれも著者はアントニー・デ・メロ(イエズス会)「東洋の瞑想とキリスト者の祈り」、「心の泉」(女子パウロ会出版)。

寄稿1:ワールドユースデーに参加して

ワールドユースデーに参加して

貝取・豊ヶ丘地区 塚本 博幸

 私は7月22日から29日に開催された「ワールドユースデー・イン・リオ2013」に参加してきました。この大会に参加できたのは、ひとえに多摩教会の皆様のおかげと感謝しおります。ありがとうございました。
 さて、今回の大会に参加したことに対し、先日も報告会を行ったのですが、カトリックニューズにもぜひ寄稿していただきたい、という依頼を受けましたので一筆とらせていただいた次第です。この駄文に目がとまって少々つきあっていただけたら幸いです。

 まずワールドユースデー(WYD)についてご存じない方もいらっしゃると思いますので少し説明したいと思います。
 WYDとは、1984年に教皇ヨハネパウロ2世の提唱で始まった青年カトリック信者の年次集会のことです。日程は1週間にわたって行われ、世界各国から青年カトリック信者数百万人が集まります。2、3年に1回のペースで開催されており、開催場所はカトリック国の持ち回りにより行われています。今回はブラジルのリオデジャネイロで行われました。

 このイベントのメインは何といっても最終日に行われる教皇ミサにあります。世界各国から集まったたくさんの若者(今回は約300万人と発表されています)と一緒に捧げるミサは壮観のひと言につきます。青く透き通るような海をたたえるリオデジャネイロのコパカバーナビーチで、国も人種も違う青年たちがキリストに対して祈りを捧げている。感動しない人はいなかったと思います。
 また、日本中のカトリック信者の青年と交流できたことも大きな収穫のひとつだと思っています。ご存知のように日本のカトリック信者は非常にマイノリティーです。普段はほとんど出会うことのない、同じ信仰を持った仲間たちと同じ時間を共有できたことは神様からの大きなお恵みだと思っています。
 そして、自分の中での信仰の位置づけも変わったと感じています。今まではカトリックというものに対し、どうしても堅苦しい考え方で接しがちでした。聖書の解釈の仕方、ミサでの立振舞い方、普段の生活の中でのキリスト者としての過ごし方、キリストと自分の人生の関わり方、などなど、、、。挙げていったらきりがありません。私はこれらに対する答えを求めようとしてブラジルに行きました。
 しかし、そこで答えは見つかりませんでした、いえ、正確にいえば見つけようとしませんでした。そこには、あるがままの若者たちであふれかえっていたからです。そこで私は気づきました。
 今までの自分は堅苦しく一つの答えを神に求め続けていたこと。そして、そのままでは結論はいつまでたっても出ないのだ、ということ、です。堅苦しい考え方で一つ一つ論理的に神を求めていくことも、ひとつの道なのかもしれません。しかし、それに行き詰まったときは初心に立ち返り、もう一度まっさらな状態で神と向き合うことが大切なのです。神は愛です。決して論理で説明できるような代物ではありません。それを今回のWYDで学ぶことができました。

 長くなりましたが、自分をブラジルまで連れて行ってくださった神様のお導きと、それに対して経済的な支援をしてくださった多摩教会の皆さまに感謝の意を述べて今回の結語とさせていただきたいと思います。
 本当にありがとうございました。

投稿記事2:人間の原点に戻った「無人島キャンプ」

人間の原点に戻った「無人島キャンプ」

諏訪・永山・聖ヶ丘・連光寺地区 伊禮 正太郎

 「無人島に1つだけ何かを持って行くなら何を持っていく?」 なんて質問をされたとき、世界中の人の答えで最も多いのは聖書だそうです。確かにそれも大事だと思いますが、実際に無人島に行くと答えは変わってくるでしょう。
 僕が「ハレレ」(ここでは親しみを込めて晴佐久神父のことをハレレと呼ばせていただきます)の無人島キャンプに参加したのは今年で2回目です。

 まずは、そこがどんな島なのかを僕なりの観点で説明しましょう。
 あの島ではどんなにシャイな人間も、大きな悩みを抱えた人間も、あまりの不便さと驚くほどの美しさに、ただただ笑ってしまいます。例えば、旅行に行くと旅先のホテルには、もちろんトイレがあり、風呂があります。さらには部屋まで荷物を運ぶホテルマンもいます。しかし、無人島のトイレは、砂に穴を掘っただけの手作りトイレですし、お風呂はもちろん、ありません。
 荷物を上陸させるには、重い荷物を船の上から歩きにくい砂浜まで、何度も往復して陸に運びます。いや〜不便ですね。しかし、そこは驚くほどに美しい。もう一度、普通の旅行を思い出すと、確かにそこには現地にしかない建物や現地にしかない美味しい料理がある。でも、どこへ行ってもコンクリート道路の上を車が走っているし、鉄の建物があちこちにあり、夜空の星は人口的な光に邪魔されてしまいます。
 「無人島はどうだろう?」 そもそも無人島なので、人がいないんですね。夜、空を見上げると光がなかったころの時代に引き戻されたかのように、星が満遍なく散りばめられている。恐竜たちはこんな星空を見ていたのだろう。

 次は今年の無人島キャンプの感想をいいますね。
 今年は台風の影響で上陸期間が短くなりました。でも、去年は台風が直撃して、半日しか上陸でませんでした。今年はたった3日間でも島で過ごすことができて、すごくうれしかったです。
 さらに今年は無人島上陸25周年なので、大きなイベントを企画していて、皆、何カ月も前から準備していました。無人島キャンプのファミリーたちには、このキャンプのベテランもいるし、コテコテのシティーボーイもいるし、僕みたいな島育ちの田舎者とさまざまな人間が集まっています。そんな生まれも、育ちも、年代も、現状も、まったく異なる人たちがひとつの島で過ごす、とても楽しいキャンプなのです!

 昼は透き通った海に潜り、「本物の」水族館を楽しみ、泳ぎ疲れてテントに戻ると、美味しい食事が待っています。昼ご飯は大抵インスタントラーメンなのですが、何故か極上の高級ラーメンのように美味しく感じます。夜になると持って来たギターやドラムで島中に音楽が鳴り響き、夜ご飯を皆で食べながら世間の悩みなんて忘れて、ただただ笑う。皆お腹いっぱいになると、寝そべってファミリーと語り合い、星を見ながら波の音を聞き流す。そこでは皆がこう口ずさみます。「いいね〜一生こうしていたい」。そして皆テントに戻り、眠りにつく。朝起きてテントを出ると、目の前には綺麗な海が広がり、また無人島キャンプの新たな一日が始まる。

 このキャンプをまとめると、現代のネット社会、つまりソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS; ミクシィやツイッターなど)社会では考えられないほど生身の人間と極めて過酷な状況で関わりあう、そして、現代の建物が密集した街では考えられないほどの自然を見て、肌で感じる。考えてみると、それが人間であって、それが自然である。いうなれば、人間の原点に戻った普通のキャンプなのです。

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巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英「仲間たちと、出発しましょう!」

仲間たちと、出発しましょう!

主任司祭 晴佐久 昌英

 日本聖公会神戸教区の中高生大会に、講師として招かれて、岡山へ行ってきました。
 山間の施設で、70名ほどの中高生と30名ほどのリーダー、OB、司祭たちが和気あいあいと過ごしていて、ちょっとうらやましかったです。三泊四日のプログラムはすべて中高生自身に任されているということで、参加者たちの顔の輝きを見ても、これがいかに充実した集いであるかは、すぐに分かりました。
 この神戸教区の中高生大会は、日本聖公会内でも有名な大会だそうで、今年でちょうど50周年になるということです。節目の年を再スタートの年と位置付け、記念講演として、晴佐久神父が呼ばれたというわけです。大会二日目の講演会には、講演だけ聞きに来た信者さんも150名ほどいて、大変な熱気でした。
 大会テーマは、ずばり「継承」。講演でも、教会が受け継いできた大切な福音を、次の世代につないでいくことの大切さについてお話ししました。特に、中高生が仲間と共に信仰の喜びを知り、教会の尊さに目覚めることの重要性は、どれだけ強調してもしすぎることはありません。講演会で、「みんなで継承していこう!」と呼びかけながら、それこそ言うなれば「継承教会」であるカトリック教会こそ、このような大会を開く必要があるのになと、歯がゆい思いをしたものです。胸に伝統的な十字架の模様が入り、肩口に「継承」と書かれている、全員おそろいの黄色いTシャツを着た、彼らのはしゃいでいる姿が忘れられません。

 思えば私自身が、いわば中高生大会ともいうべき、多摩地区の中高生錬成会で育てられた司祭ですし、当時の中高生で、現在は教会の中核で活躍している信徒も多くいます。子どもでも大人でもない中高生時代に信仰と真剣に向き合うことはかけがえのない体験であり、生涯の信仰を支える力の源となることを、みんな、自ら体験してきたはずです。あのころの大人たちに、どれだけ援助され、育ててもらったことか。そのころの友達に、どれだけ支えられ、今なお助け合っていることか。
 小学生までは何とか教会に連れていけても、中高生になると教会から離れてしまうのが普通である現状の中で、絶滅危惧種を守るように中高生を大切にし、彼らと教会の関わりを真剣に考えることは、未来の教会を守り、考えることそのものです。

 今年は、多摩教会においても、何とか中高生会を活気づけ、中高生会再興元年にしようと、春には中高生ディズニーランド無料ご招待という、教会史上初の企画で大盤振る舞いをして景気づけ、夏には多摩教会としての中高生合宿を、本当に久しぶりに実現させました。合宿のミサには、合宿地のあきるの教会の信者さんも参加して、多摩教会の中高生のために差し入れをくださり、一緒に祈ってくださいましたが、「中高生がいるなんて、本当にうらやましい」と、つくづく言っておられました。
 合宿のおかげで、これからも、定期的なお泊り会をしていくことが決まりましたし、クリスマスには、中高生自身の企画で盛り上がってもらいたいと願っています。中高生たちが、教会って本当に素晴らしい集いだ、天国の始まりだと体感してもらえるように、教会をあげて応援していきましょう。
 何よりも、中高生の皆さん! 友達いっぱい誘って、教会という小さな天国で、たくさんの教会体験、感動体験をしてください。
 聖公会の中高生大会でも、中高生たちにこうお話をしました。
 「皆さんを選んだのは、神様です。神様が選んだのですから、何の心配もありません。さあ、神さまが出会わせてくださった仲間たちと、出発しましょう!」

連載コラム:「私を支えてくれるもの」

連載コラム「スローガンの実現に向かって」第32回
「私を支えてくれるもの」

愛宕・乞田・鹿島・松が谷・和田地区 石濱 裕絵

 まず初めに、私の信仰を支えてくれる言葉を紹介します。
 「信者であっても、信者でなくても、好きでも、嫌いでも、みんな神さまに愛されている子供だよ」。
 この言葉は、お世話になっているイエズス会の神父様から教わった言葉です。
 今までの私は、苦手だなと思う人がいるとその人を遠ざけて、なるべく関わらないようにしていました。でも、イエスさまが教えてくれた祈りの中には、いつも「私たち」という言葉がありました。この言葉に支えられて私もその人も、神さまの子供として同じ存在であると思えるようになったのです。

 2010年の復活祭に多摩教会で受洗して3年の月日が過ぎましたが、そのころと比べて自分の中で変わったな、と思うところが2つあります。
 そのひとつがカフェ・オアシスの店長を引き受けたことです。
 もともと自分たちの代のメンバー内で「新しい人たちで何か奉仕活動ができないか」と思い立ったのが始まりでした。最初は小さな集まりでしたが、教会の正式な活動と認められてからは、さまざまな場面でみなさんに奉仕できるようになりました。
 私は、もともと先頭を切って物事を進めるタイプではなく、人と接するのも苦手だったりなど、店長を務めるにあたって不安なところもあったのですが、周りのメンバーに助けてもらいながら続けられています。
 また、カフェ・オアシスの活動を通して、これまで知り合えなかった方たちとも関わりが持てました。いつも多摩教会に来る人にはカフェ・オアシスの活動は、大分認知してもらえるようになりましたが、もっといろいろな方に知ってもらいたいです。
 例えば、初めて教会に来た人が気楽に入れたり、仲の良い友達同士でおしゃべりをしたり、コーヒーを飲みながら知らない人同士が知り合ったり、息抜きにひとりで飲んだり・・・など、訪れる人たちがホッと和めるオアシスのような存在になれたら嬉しいです。

 また、もうひとつ自分で変われたなと思うところは、今年の復活祭で、ある方の代親をさせていただいたことです。
 代親になれることはお恵みですが、今までの私ならきっとプレッシャーに負けて断ってしまったかもしれません。でも信仰という大きなお恵みに育ててもらい、カフェ・オアシスでの経験を通して成長ができ、引き受けることができました。
 その方と知り合うことができて、これからまた一緒に成長していけることをとても幸せに思います。
 3年前の受洗記念文集に、「私の代親をしてくれた友人のように心に大きな柱がある人になれたら嬉しい」と書いたことを覚えています。その友人とも同じ信仰を分かち合える仲間になれたことで、より強い絆を感じられるようになりました。

 まだまだ神さまの優しさに甘えてばかりの弱い私ですが、言葉や態度には出さなくても、見守っていてくれる人達に感謝の気持ちを忘れず、今までの自分より、あと半歩・・・あと半歩・・・と進みながら、頑張っていきたいと思います。
 そしてどんなときも、どんな私でも神さまが一緒にいてくださることに安心して、歩いていきたいです。

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英「世界がガラリと変わる」

世界がガラリと変わる

主任司祭 晴佐久 昌英

 「うれしい! 天にも上る思い!」
 この試練の多い人生において、たとえ一度でもそんなひとことを口にできる人は、なんと幸いなことでしょうか。
 そんな幸いなひとことが、そう言った本人の言葉として実際に載っている小冊子があります。ほかならぬ、カトリック多摩教会2013年の受洗者記念文集です。このたび、多摩カトリックニューズ別冊としてお配りいたしましたので、ぜひお読みください。今春受洗した大勢の新しい教会家族の、それぞれの受洗の感想が載っています。いずれもまごころから溢れる真実の言葉で書かれた、喜びと感謝に満ちた内容で、読んでいて本当にうれしくなるし、感動するし、励まされます。
 冒頭のひとことは、その中のひとりの受洗者の感想で、喜びに舞いあがっている様子に思わず顔がほころびますが、これはたまたまアイウエオ順に並んだ文集の、最初の人の文章から引用したというだけで、他の人たちの感想も一様にそのような喜びと感動に満ちています。それまで苦しみを背負い、虚無感にとらわれていた人が福音に出会って救われ、時に劇的に生まれ変わっていく様子は、まさに驚異的と言っていいほどです。まあ、いいから読んでみてください。ここに、ほんの一部を抜粋してみます。

 「私の世界はガラリと変わりました。すべてを神様の御手に委ねて、軽くなって、こんなにあたたかくて、今本当に幸せです」
 「わたしは本当に変わりました。ミサに出る度に心身ともにどんどん楽になっていきました。『神は愛であり、私たちはその愛によって望まれて生まれ、その愛に救われます』ということを知った時、『これだ!』と思いました。これまで、『生まれたくなかった』と、自分の誕生や存在に嫌悪感を抱いていたけれど、ようやく自分の誕生を認めることができました」
 「今僕は、自分の将来が楽しみで仕方ありません。これからどんなお恵みを与えていただけるのでしょうか。本当に楽しみです。あのパン・・・今まで食べたどの食べ物よりも、おいしかったです。本当においしかったです」
 「『これ以上悲しい思いはしたくない。何とかしなきゃ!』と思い、『私、洗礼をうけます』と思い切って伝えました。その宣言から、少しづつ周囲の皆とも和解をし、ずっと暗闇の中にいた私に光が射し始めました」
 「導かれて多摩教会のミサにあずかりました。神様の言葉が直接私の魂に響き、その後も数日かけて愛と喜びが全身全霊に広がってきました。神様に愛されていることを初めて心と体と魂で感じました。今までの数十年は、洗礼に向けての準備期間で、すべては神さまのご計画だったと腑に落ちました」
 「ミサや入門講座で度々、『私たちはすでに許されている、だからもう大丈夫ですよ』とおっしゃっていました。私はその言葉にどれだけ救われたか・・・その言葉を聞いた時、『私、クリスチャンになる!』と決心がつきました。洗礼式を終えて、私は神の子となり今、自分にこう言い聞かせています。『もう大丈夫、私は許されている、だから生きていてもいいの・・・』と」

 これを神の業といわずしてなんというべきでしょうか。
 この文集を作ったのは、そんな神の業を教会家族で分かち合うため、そして多くの人にも伝えるためです。ぜひこれを活用してください。本人に「読んだよ」と声をかけ、親しくしてください。知り合いに「読んでよ」と渡して、福音を伝える道具にしてください。キリストの教会を知り、「世界がガラリと変わる」人が、身近に大勢いるはずです。
 受洗者の証言ほど、説得力のあるものはありません。文集の最後の人はこう書いています。
 「神様は、私が幸せになる機会を逃しても、私を一度も見捨てることなく何度も呼びかけて、導いて、招き入れて下さいました。私の罪を許し『あなたは私の目に貴い』と言ってくださいます。天の父は、御ひとり子イエス・キリストによって、全ての人を無条件の愛の内に招き入れて下さる事を、証しします」