愛の中で今を生きる

晴野 百合子(仮名)

 私が教会を訪れたきっかけは、マリア様のおメダイに出会ったことです。パリの教会の有名なおメダイでした。持った瞬間に体が熱くなりました。マリア様が私の近くにいらっしゃり、青と金色の光が見えた気がしました。これはマリア様が呼んでくださっているかしら…と思いました。

 福音書を4年前くらいから、つらい時に読んでいました。いつも神を求めながら、実家で生活を送ってきました。
 実家では別の宗教に熱心な親と一緒に信仰していました。とても窮屈で、神様と1対1で純粋に向き合えないこと、神を愛せないこと、理詰めなどにも、苦しくなっていました。
 親がやってきた通りに一生懸命に信仰しても、とてもつらくなって、病気が悪化していくように感じたりもしました。それから、誰からもがんばれ、がんばらなきゃ病気なんて治らない!と言われるたびに、がんばっても意味ないと思いました。がんばっても、いつも結果は神様が決めるからでした。すべては神様のご意思のままでした。がんばったから愛されるのではないし、頑張っても病気は治りませんでした。そして、ただ愛されているのが知りたかったのでした。

 神様は私を病気にして、今までのようにはがんばらせないようにしてくださっている気がしました。ただ、神から深く愛され、本当の意味で癒されるために、イエス様に出会ったなら嬉しいなと思いました。もう、押し付けられるのはうんざりでした。
 誰も私を病気にしないで!!と心はいつも叫んでいました。マリア様のおメダイに出会った数日後、初めて、S教会の病者のためのミサに出席しました。雨の日で、マリア様が泣いているようなお天気だったことを覚えています。病者のミサに参加した理由は、自分の病気と長く向き合ってきて、とても苦しかったし、おメダイに出会って、マリア様のお導きを感じたからでした。私は病気になってから、アヴェ・マリアをたくさん歌いました。病気の気分転換にとも思い、好きで歌っていただけだけれど、それが積もって自然な心からの叫びになっていたのかもしれません。

 S教会のルルドの泉を携帯の待ち受けにしたり、マリア様の祭壇の百合の花の前で癒されたりした頃もありました。百合を見ているだけで、とても落ち着きました。マリア様がサインをくださっているのかなとも思いました。とにかく百合が好きで、よく買っていた時期もありました。マリア様は私にとって、ママであり、とても憧れの方です。私は何もマリア様のことを知らないけれど、とても好きです。ただ、シンプルに好きなことがとても尊いことのように感じます。もちろんイエス様も大好きです。S教会に通いながら、お家でカトリック系の本を読んだり、読める物だけ、読める時に読みました。
 S教会に通い続けようかなと思いましたが、自宅から近い、多摩教会を勧めていただきました。ミサのために来られたらいいなと思いました。ミサは好きで、本当にひとりきりで祈れる空間な気がしました。心から求める信仰ができることは、私にとって、喜びでした。神と自分との間に何も挟まずに、神と向き合いたかったのでした。誰に何も言われたくありませんでした。それだと、親や家から離れた意味がないからでした。ただ、神様と近くなりたくて神様に愛されている子供と、とても実感したかったのでした。

 初めは受洗するつもりはありませんでした。ただ、たまにミサに参加したい気持ちがありましたが、受洗した方が、もっとすっきりできるような気持ちもして、自分がクリスチャンになれることも、嬉しく思ったので受洗することにしました。病気ともうまく向き合えるようになって、朗らかに、自分に優しく生きられるようになれたらいいなと思っています。

 今はあまり焦りたくなくて、神様が私を個人的に、ただ愛で導いてくださることを信じていたいです。とらわれのない心で信仰ができたらいいなと思います。規律正しさやお勉強だけでなく、ただ愛によって、生きているから体験できること、学べることがあるなら、それはとても貴重な体験のように感じます。愛がある信仰ができたらいいなと思います。いつも愛のほうが大きいならいいなと思います。いつも愛の中で、新鮮な体験をしたいです。死の暗闇から、ただ見える光は、愛の優しい光のようです。そこにはすべてがあるような気がして、私はどんなに苦しい時も、イエス様からいただいた、命の炎を消さないように、一瞬ごと、生きたいと思います。
 先のことも考えられない程、ただつらい毎日があっても、先のことなど、神様がどうにかしてくださるのだから、私は今を、ただ、与えられている今だけを、生きたいです。今だけを大事にしたいです。無理して病気が悪くならないように、バランスを大事にして、ただ、愛の中にいられたら嬉しいなと思います。いつも何も知らない子どものように、楽しめることも見つけて、桜の花のような可愛いピンクの心の色でいられたらいいなと思います。

 
 受洗に携わってくださったすべての方に、心から感謝しています。ありがとうございました。そして、これからもよろしくお願いいたします。

受洗までの不思議な歩み

長居 正英(仮名)

 昨年5月、手帳を見ながら歩いていた妻が、橋への曲がり角と勘違いし、手前の階段を一気に20段転がり落ちる大事故に遭遇しました。命は助かったものの顔面縫合と大腿骨頸部骨折手術を受け、車椅子生活は必須と覚悟しました。しかし懸命のリハビリの結果1カ月ほどで普通に歩けるようになり、奇跡的早期回復に心から感謝致しました。

 50年来のカトリック信者の妻は、早速ミサに行き感謝の祈りを捧げ、晴佐久神父様の親身ないたわりの言葉が嬉しく、助かったのはきっと神様の「まだ何かすることがあるよ」との啓示だと思ったそうです。
 そこで「夫は仏教徒で洗礼を受ける意思はありませんが、入門講座を受けさせて貰えますか」と尋ねたところ、「もちろん。ぜひ連れていらっしゃい」と快諾いただき、妻の勧めで6月半ばから土曜日の入門講座に出席し始めました。
 禅宗にひかれ般若心経を日々唱える身で、当初は戸惑いも感じましたが、毎週、神父様の日々の生活に密着した講話を聞き、多忙を厭わず東日本大震災被災地支援や悩める若者達救済に献身的かつ精力的に活躍される姿を目の当たりにするうち、この方になら、ぜひついていきたいと思うようになりました。般若心経の「無」が人生は大自然・大宇宙の営みのほんの一瞬と認識することで一切の悩みや苦しみから開放される悟りの境地とすれば、その宇宙創造の主を神と信じるカトリックの教えとは何の矛盾もないのではと考えるようになりました。

 教会の図書で出身地長崎にちなんだ本「長崎の鐘」を読み、永井医師がカトリック信者に至った経緯、また自ら原爆被爆医師として活躍しながら、爆心地浦上教会の瓦礫の中から掘り出し仮設の鐘楼に据えたアンジェラスの鐘。その澄んだ音色が被災者達の沈む心に生きる希望と元気を与えたことを知りました。大好きな歌謡曲「長崎の鐘」にこんなエピソードがあったことも初めて知りました。
 また同じく長崎に関係深い聖人コルベ神父の伝記にも深く感動し、洗礼名とさせていただきました。後で多摩教会の守護聖人だと知り、奇遇に驚きました。
 また先日、教会で見た前ローマ法王ヨハネ・パウロ二世の伝記映画「KAROL」で、ナチや共産主義ロシアによる不当な迫害にも力で抵抗せず「愛情平和ゆるし」の心に徹された生き様を知り、さすがに晴佐久神父の信奉される方だと、その信仰の力の凄さに感銘を受けました。

 こうして多摩教会に足を運んでいる内にいつの間にか洗礼を受けた自分がいて、我ながら不思議な気さえしています。妻も思いがけぬ展開に私以上に驚いたようですが、とても喜んでくれました。
 洗礼式には息子夫婦が孫連れで来てくれたのも嬉しいサプライズでした。
 晴佐久神父様・代父のT様・入門講座や洗礼式準備などお世話になった皆々さま、有難うございました。今後とも宜しくお導き下さい。
 「朝の祈り」「晩の祈り」を特に心がけて唱えることから始めています。

洗礼を受けて

加留部 隆(仮名)

 入門講座にもあまり出られず、どたばたの洗礼となった。
 晴佐久神父様とは高円寺教会の頃、何度か入門講座に参加したり、ミサの後で話を聞いていただいたりと、わりと古くからお世話になっている。そんなこんなで何とか洗礼を受けられたのだが、まだ実感がわかないのが正直なところだ。
 ただ、今までは遠目でながめていたキリスト教の歴史に対しての見方の変化が起きた。やはり内側と外側では全然違う。受け入れたり、ゆるしたり、理解しようとしたり、知ろうとしたりと、曇っていたものが晴れて見やすくなった。また、変化へ恐怖を感じていたのだが、変化すら普遍の中では無意味となり恐怖を感じることがなくなった。
 そのわざを、深めていきたい。洗礼名の名のもとに。

「これから・・・」

本多 美佐(仮名)

 洗礼式が終わり夜空に光る美しい月を見ながら、私を初めて多摩教会に誘ってくれた友達と受洗の喜びをかみしめながら永山駅まで歩いた。透き通るような真白な月だった。

 去年の夏の終わりに友達に誘われて多摩教会に来た。初めてのミサに感動した。ミサ後信徒館で、皆さんの優しい笑顔に出会った。友達は自分の教会に戻り、私は神様に守られているような気持ちで、ひとり毎週のように多摩教会へ足を運んだ。とても自然な気持ちで…。
 9月…10月…11月が過ぎ…12月上旬、神父様と面談。洗礼を受けるには、まだまだ未熟であり、神様、イエス様のこと不勉強で、こんな自分が受洗して良いのか・・・という思いと、子供の頃クリスマスにもらったイエス様の絵本を見て「教会へ行きたい」という思いがやっとかなった幸せな気持ちが交差して決心できず、保留ということになった。(貴重なお時間を頂いたのにごめんなさい…)
 年が明けて元日、神父様に「受洗したい…」とお話しすると「良かったね、おめでとう。良い年の始まりだね」と笑顔で言ってくださいました。
 2月26日洗礼志願式、4月5日から7日の聖なる3日間の祭儀は厳かで心に残りました。

 私の母は他宗教者ですが、子供の頃イエス様の絵本をプレゼントしてくれたのは母でした。私を信じ「信仰を持つことは良いことよ」と言って、受洗に反対しなかった母にも感謝しています。

 無事に受洗し、幸せな気持ちが続いています。悩んだことがうそのようです。
 本当に「これから…」ですが受洗した喜びと洗礼式の帰りに見たあの美しい月を忘れずに、キリスト者として一歩ずつ歩んで行きたいと思っています。
 晴佐久神父様、シスター、代母のIさん、入門係の方々、励まし合った仲間の皆さん、多摩教会の皆さん、そしてKちゃんありがとうございました。
 これからもよろしくお願いします。

洗礼を受けて

多田 久子(仮名)

 多摩教会の入門講座に通いはじめたのは、2011年6月からでした。
 晴佐久神父様からたくさんお話を聴きました。どのお話からも「あなたは神様から愛されています」というメッセージが伝わってきました。
 それでも私の心の中には洗礼を受けることに迷いがありました。晴佐久神父様との面談、入門講座でのお話、ミサの中でのお説教、ミサで出会った人のお話。たくさんのお話を聴くうちに、私の心の中の迷いはいつの間にかなくなっていました。

 ここまで導いてくださった神様、私にいつも寄り添ってくださった人たちに感謝の気持ちでいっぱいです。
 洗礼を受けたということは信仰のスタートラインだと思っています。一歩ずつ歩んで行けたらと思っています。
 そして私に寄り添ってくださった人たちのように、私も私を必要としてくださる人に寄り添っていきたいと思っています。

心緩やかに生きる

松原 晴子(仮名)

 こわごわと緊張しながら、教会に足を踏み入れたのは昨年7月10日でした。
 最初に出会った方の優しさが、まるで魔法のように緊張感でいっぱいの私の背中をそっと押してくれてホッとしたのを忘れることができません。当時、独居老人の私は東日本大震災以後の不安感で身も心も砂漠のようにカラカラの干物状態になっていました。
 「いいのよ・・・。ご飯一緒に食べましょう」 
 その方のひと言は、もしかしたら人生のすべてを解決してしまうほどの特効薬! 教会の専売特許ですね。カラカラ干物の私はじんわりと潤い、この日以降の私はもう地震の不安感なんかそっちのけ、まるっきり忘れていました。
 教会での音楽と説教は私にはまるでコンサートそのもの。そしてご飯も私を強くひきつけました。
 独り住まいの私は、人と一緒にご飯を食べられることは、無上の喜び!! 
 それからは、すっかり教会に入り浸り!! 「神様」に最も遠い存在の私が、じわり、じわり、と何やら思考停止のまま引きつけられてその気になって・・・「洗礼」にゴールイン!! 
 実は今も、夢か幻かの状態です。

 この数カ月間学んだことは、「私は!」と意地を張らないで、肩の力を抜いて、周りの人や、環境をそのまま受け入れて緩やかに生きる。
 いままで「私は」とありもしない幻想の私を左右する「価値判断」にとらわれていました。教会のコミュニティーは、「私は」と息巻く「価値判断」から「事実判断」へと変えて理屈抜きで生きている事実を、味わうことでした。自分が生きている事実を事実として強く味わうことは、畏敬の心を持ち感謝の心を持つことにつながりました。
 心緩やかに生きる。こんなたやすいことにどうして背を向けて人生を醜く生きていたのか。自らのとんがった行動をしみじみ振り返る日々でした。まだまだですけどね。

 洗礼後は、あっけないほど自由に羽ばたいている?
 そして、人生の晩秋を赤く、情熱的に、意欲的に、の気持ちはふつふつと心の底で出番を持っています。このやる気満々の気持ちに「神様」が後ろ盾になってくれたら…。
 これからは、人生最終章に向けて、レッツゴーですね。まだまだ、人生何があるか分からない。これからが楽しみになりました。どうぞよろしく。

洗礼を受けて

草野 久美(仮名)

 水をかけられて以来、私の心は満たされています。喜びと平安に満ちています。今までの人生に感謝し、まったく新しい人生を始めようと思います。「Child of the Light」(光の子)としてこの人生を。
 ああ、これが「秘跡」というものなのか、と思います。水をかけられながら、原初キリスト教のヨルダン川で、ザバーッと頭から水を潜る情景が浮かんできて、私の中で何かが、確かに変化しました。二千年もの間、秘跡は生き続けているのですね。
 これほどみずみずしく、生き生きしたイエス様のエネルギーが、連綿と続いてきたことに、心から驚嘆します。そして、それを守ってきた本当にたくさんの方々、教皇様・司教様・司祭様、聖人聖女の方々、殉教者の方々、修道士・修道女の方々、信者の皆さんに、心からの敬意と称賛を捧げたいです。そして、この大きなコミュニティーの一員にならせていただいたことに、喜びと感謝と誇りを感じます。

 私が多摩教会に初めて伺ったのは、昨年の11月末のことでした。マザー・テレサの修道会のシスターから、晴佐久神父様のことを教えていただき、この神父様からイエス様の教えを学ぼう、と思ったからです。
 訪れた多摩教会は、私にとってまさしく「荒れ野の中のオアシス」でした。ミサにあずかるたびに心が満たされました。そして教会の皆さんの言葉の端々から、立ち居振る舞いのすべてから、存在の有り様から、信仰を持ち続けることがどういうことなのかが、言葉を超えて伝わり、どんなに癒されたことでしょう。ああ、ここには本当の誠実さがある、欺瞞に満ちた社会の中で、ここだけは愛に基づいて生きる方たちがいる。私ももう一度、人を信じ、神を信じて生きてみよう、と思うことができました。
 晴佐久神父様のCDも毎日聞きました。電車の中でも、買物中も寝る前も。まるで渇きを癒すように聞き続け、3カ月たった頃、ふと気づくと、心の痛みが消えていたのです。思い出すと心がチクチク痛んだ事々を、もう思い出しても痛くない。心の傷がピッタリふさがって、すっかり癒されていました。私にとっては奇跡でした。

 この4カ月間は、神に近づきたくても、心のどこかで近づけなかった私が癒され、神と和解し、親しく神と出会えた、神へ帰還する4カ月でした。
 そして洗礼を受け、私は神によって満たされました。これからも何があっても、何がなくても、すべては神の御心の中で生きていくことができます。

 晴佐久神父様、代母様、入門係の皆様、教会の皆様、お導きいただきまして、本当にありがとうございました。言葉に尽くせぬ感謝で一杯です。これから、さらに信仰を深め、皆様にご恩返しができるよう、歩み続けたいと思います。

これまでとこれから

佐々木 佳子(仮名)

 1年前の今頃は、まさか自分が洗礼を受けるとは、夢にも思っていませんでした。けれど、こうして洗礼式を終えた今、振り返ってみれば、過去に起こったひとつひとつの出来事には意味があり、すべてはつながっていたのだなという不思議な感慨があります。

 「風向きに翻弄されない強さを、貫ける信念を、呼吸するみたいに自然に身に付けたい。そういうふうに、生きたい・・・」5年ほど前、当時の自分には受け止めきれない出来事が起こったとき、心底そう願いました。世界の見え方が一瞬にして変わってしまったようで、けれどこのまま暗く閉ざされた場所に倒れ込んでしまいたくはなくて、必死にもがいていました。それからずっと、無意識に、けれど切実に、どこにあるのか知れない答えのようなものを探し求めてきたように思います。
 そして昨年の震災後、祈りの場所を求めて教会を訪ねるようになり、その後インターネットで偶然目にした晴佐久神父さまの本の引用をきっかけに、カトリック多摩教会にも出合いました。それまでキリスト教についてほとんどなにも知らなかったけれど、そんなわたしにすら深く沁み入る言葉が、ミサや入門講座ではたくさん語られていました。自分が信仰を持つことを想像したことはなかったけれど、何か大きな流れに導かれているような気がして、洗礼を受けることにしました。

 しかし、そこからがまた新たな迷いの日々の始まりとなってしまいました。こんなに惹かれていながらも、キリストを信じるということがなかなか自分のこととして受け入れらなかったのです。信じたいという気持ちと、分からないという問いが、常に拮抗していたように思います。けれど、そんな気持ちを抱えたままでも、教会に行けばいつも、それまでの価値観や幸福観とは違う、そしてそれまでの価値観や幸福観よりもずっと美しい光景を目の当たりにしました。ちっぽけで頑なな自分の想像など遥か超えた体験が、そこにはありました。そんな出来事の連続の果て、今のわたしを縛っているのは自分自身の縄でしかないと思い知った時、ようやく一度は取り下げてしまった洗礼を、再び志願することができました。今はまだちゃんと信じられなくても、これまでと同じ道には戻りたくない、これから先はこういう生き方がしたいという思いからでした。

 洗礼式で額に水がかけられた時、確かに新しく生まれ出た感覚がありました。地球ではなく、もっと広い、どこか宇宙のような場所へ。周りが暗く、洗礼盤が青かったからでしょうか。(笑) 
 あの日、額に受けた冷たい水の感触は、これまでとこれからの確固とした分岐点のようで、きっといつまでも忘れられないと思います。そして自分でも驚いたことに、翌朝の主日のミサで、最前列の受洗者席から後ろを振り返った時に見えたたくさんの笑顔に、突然涙が止まらなくなりました。真っ暗な場所で光を探し求めていた長い日々は終わったんだ、これから先は楽しんでいいんだ、もうひとりじゃないんだ、そう思うと心底うれしく、また全身の力が抜けるほどほっとしました。

 洗礼を受けた今も、依然として間違い、迷うことは多々ありますが、そのたびに、こころの中に立ち戻る起点ができたようで、その恩恵の大きさを遅ればせながら実感し始めています。そして、祈りが日常になったことで、本当に大切なことに気付かされ、また随分楽にもなりました。悲しみや悔いを祈りに昇華して、御心のままにと神様に願うことは、自分の頭で必死に考え答えを探し続けてきたわたしにとっては、大きな解放でもありました。
 ぎりぎりの滑り込みではありましたが、今年、晴佐久神父さまから29人の同期の皆さんと一緒に洗礼を授かることができ、多摩教会の仲間になれたことを、今はただただ嬉しく思います。神父さまをはじめ、迷っていた時期にいろいろと声をかけてくださった皆さん、本当にありがとうございました。

 冒頭の、いつかのわたしの願いが洗礼という思いも寄らないかたちで、けれど最上のかたちで、叶えられたのだとしたら、あの人生で一番暗かった時期にこそ、神様は最も近くにいてくださったのだと思います。最後まで迷い、一時は離れかけたわたしですらそうであるならば、神様はきっとすべての人に、どんな時でも寄り添い導き続けてくださっているのだと今は信じています。
 これから続いてゆく日々が、キリストへの信仰を通して神様の愛のうちに生きる喜びを深め、その恵みを多くの人と分かち合ってゆくものでありますように。