連載コラム:「カトリックとの出会い」

連載コラム「スローガンの実現に向かって」第35回
「カトリックとの出会い」

愛宕・乞田・鹿島・松が谷・和田地区 加勇田 明子

 カトリックとの出会いは、アンセルモ教会(目黒)の土曜学校です。私は5年生でした。
 教会に行くきっかけは信者の友人に誘われたからです。先生の弾くピアノを囲んで、聖歌の練習をしました。どの曲も何回も繰り返したので、よく覚えています。その後クラスに分かれて紙芝居、子どもの公教要理、お話など、最後に聖堂でごミサでした。

 私は、先祖の命日、お彼岸など、仏教の行事には家族でお寺にお参り行く一般的な家庭に育ちました。ですから土曜学校で学んだこと、体験したことのほとんどを、新鮮で興味深く感じたものでした。たった2年間でしたが、自ら進んで得た知識は即、外国文学に触れる時、世界史を学ぶ時、興味を引く大きな要因になりました。それらの底流にあるキリスト教的感覚に自然になじめたからです。
 そして、中学になったからは、教会へ行かなくなりました。

 大学生になった時、よりキリスト教を知りたいと思い、高輪教会に行きました。そこで偶然、土曜学校の時の先生と再会しました。当時のことを話すと、すぐ思い出してくれました。当時のドミニコ会の神父様のことなど昔話に花が咲きました。
 初めての公教要理の時、先生が懐かしい写真を見せながら、私をスカボロ宣教会の神父様に紹介してくださいました。求道者は私一人でした。訛のある日本語なのに、とてもわかりやすく、しっかり吸収できました。聖書が身近に感じられました。

 それから何十年か経って、私は八王子教会の土曜学校で教えていました。
 スタッフにと要請があった時、びっくりしてお断りしました。人違いと思ったからです。それほど、信仰と距離のある自分を自覚していたからです。信仰を教えることなど考えたこともありませんでした。熱心な要請に戸惑いながらも、この役を受けたのは土曜学校の体験があったからでした。
 経験をすること、それはどんな講義よりも、説得よりも強い力になるものだと知りました。また、蒔かれた種は長い時間を経ていろいろな形で芽を出すものだと思いました。しり込みをしていたにもかかわらず、子どもたちとの関わりの中で、知らなかったこと、忘れていたことなど楽しく勉強することができました。

 これら教会を通して得た経験、人々との素敵な出会いは貴重です。これからも、教会が日常生活のオアシスであり続けるよう努力していきたいと思います。

投稿記事:「五日市霊園多摩教会墓地への墓参」

五日市霊園多摩教会墓地への墓参

委員長補佐 北村 司郎

 去る11月4日、恒例になった五日市霊園にある多摩教会の共同墓地への墓参を行った。
 あいにくの天候であったが、50名以上の方々の参加があった。数週間前からの呼び掛けにこたえられた方々とお墓を持っておられる方々で、年々参加者が増加していっている。
 貸切りバス1台と数台の車に分乗して教会を9時30分出発。霊園に到着後、今年もあきる野教会のご厚意により、聖堂をお借りして死者のためのミサを行った。当日は死者の月ということもありいくつかの教会からの墓参もあった。
 その後、多摩教会の共同墓地へいき、お祈りとお花をささげた後、個人でお墓を持っておられる方の希望で、神父様が各お墓を回って祈っていただいた。昼食後、帰路につき3時過ぎに解散の1日であった。

 多摩教会の墓地には250名ほどのスペースが用意されており、現在の所、予約を含めてもまだ半数以上が空いている状態である。多くの方に利用していただきたい。
 今後も死者の月の行事の1つとして、続けていかなければならない行事と思う。来年はさらに多くの方の参加を希望している。


あきる野教会でのミサ
あきる野教会でのミサ
多摩教会の共同墓地で
多摩教会の共同墓地で

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初金家族の会 11月例会報告

初金家族の会 11月例会報告

広報: 志賀 晴児

 天の父のもとに迎えられ、全ての人のためにとりなして下さる聖人方に心を向ける「諸聖人の祭日」の11月1日、ごミサのお説教で晴佐久神父様は「日々の苦しみ、心の痛みが私たちの殉教です。聖人、特に各自の洗礼名(霊名)の聖人の模範に励まされて信仰の旅路を辿りましょう」と話されました。

 ひき続いての初金家族の会、この日は「介護」について、20人ほどが熱心に話し合いました。長く、苦しい傷病に見舞われた家族の自宅介護、入院、転院、最後の救命措置の厳しさなど、貴重な体験談が率直に語られ、公的なサービス、医療費などについても具体的な実例を伺うことが出来ました。
 一人で頑張らないで、お互い声をかけあい、役割を分担して助け合うこと、そのためには介護する側の考え方、意見の一致が大切、また介護される側も辛抱し、出来ることなら感謝の気持を表すことが必要、介護を通して家族が仲良しになったなどなど、お話は尽きませんでしたが、一応12時半で閉会とさせていただきました。

 12月6日(金)には、「九死に一生を得て」と題して松永 重雄さんの今日までの体験と、乗り越えた今のお気持ちをお聞きします。

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英「アンパンマンとイエスさま」

アンパンマンとイエスさま

主任司祭 晴佐久 昌英

 これを書いている今日、10月16日、やなせたかしさんが13日に亡くなったという報道が流れました。94歳でした。いうまでもなく、国民的キャラクター「アンパンマン」の生みの親であり、日本漫画界の最長老として多くの人に尊敬されていた方です。
 詩人でもありイラストレーターでもありましたが、やなせたかしが生み出す作品は、いずれも愛と優しさ、普遍的な正義に満ちていて、その作品やメッセージと本人の生き方が見事に一致しているという意味でも稀有な存在でした。彼の作品によって、どれだけ多くの人が優しい気持ちになり、どれほど多くの子どもたちが励まされたことでしょうか。

 わたしは、やなせさんと一緒にお仕事をしたことがあります。
 もう25年も前ですが、司祭になって間もなくの1989年、わたしの絵本の絵を描いてくださったのです。『みんなでうたうクリスマス』という絵本ですが、わたしにとっては人生初めての出版物であり、しかもやなせ先生が絵を描いてくださったということで、忘れることのできない、大切な絵本になりました。
 これは、クリスマスの物語を話し言葉でつづり、それにメロディーをつけて歌にするというミュージカル仕立ての絵本で、巻末には楽譜も載せ、合わせてスタジオ録音したCDも発売したということもあって、その後、多くの教会学校や幼稚園が聖劇として利用してくれました。今でも各地で親しまれていて、「ぜひ聞きに来て欲しい」と、幼稚園の発表会などに招かれることがあります。もっとも、つい先日、今年司祭叙階した若い神父さんから、「ぼくは子どものころ、あの絵本で育ちました」と言われて、もうそんなに年月が過ぎたのかと、感慨深いものがありました。
 この絵本が出たころは、ちょうどアンパンマンのテレビ放送が始まったころでしたが、わたしはまだ30歳そこそこ。若気の至りで、やなせ先生が最初に描いてくださったラフスケッチに、「自分のイメージと違う」などと意見したのを覚えています。よくあるような、飼い葉おけに寝かされているおさなごイエスを囲む聖家族の絵ではなく、大地から太陽のように顔をだした、あまりにも可愛くてあまりにも巨大なイエスさまの、まあるい顔だけが描かれていたからです。
 70歳の巨匠の大胆なアイディアにケチを付けるなんて今考えると冷や汗ものですが、先生はやんわりと、しかしハッキリとおっしゃいました。「これがイヤなら、降ります」。あわてて、「いえいえ、ぜひこれで」ということになりましたが、さて、出来上がった絵本を改めて眺めているうちに、なるほど、これこそまさにイエスさまだと気付かされたものです。すなわち、どこまでも優しくて、圧倒的に大きくて、すべてを超越する、救い主。

 実は、やなせたかしがクリスチャンであると知ったのは、ずいぶんたってからです。そう言われてみると、先生の作品の根底に、単なる善悪二元論を超えた超越的な正義感や、ひたすらに他者を喜ばせるという、キリスト教的な愛の精神が流れていることに気づかされます。
 以下、先生の語録です。
 「人生で何が一番うれしいかというと、人を喜ばせること。人を喜ばせることで、自分もうれしい」
 「お互いに相手を喜ばせれば、何もかもうまくいくはず」
 「アンパンマンは世界一弱いヒーローだけれど、自己犠牲の精神なんだよ」
 「自分はまったく傷つかないままで正義を行なうことは非常に難しい」
 「困っている人、飢えている人に食べ物を差し出す行為は、立場が変わっても、国が違っても『正しいこと』には変わりません」

 もしかすると、パンである自分を食べさせて他者を救うアンパンマンこそは、イエスさまなのかも知れません。先生が亡くなられたと聞いて、先ほど、久しぶりにこの絵本を開き、まあるいイエスさまを見ていましたが、なんだかアンパンマンに見えてきました。
 「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(ヨハネ6・51a)
 先生、ありがとうございました。先生も永遠の命に入られたのですね。
 もう絵本のことはお忘れかも知れませんが、先生のお描きになったイエスさまは、今もなお、大勢の子どもたちを喜ばせていますよ。


『みんなでうたうクリスマス』(表紙)
『みんなでうたうクリスマス』(表紙)

まあるいイエスさま
まあるいイエスさま

(上記画像はクリックすると大きく表示されます)


※『みんなでうたうクリスマス』 <絶版>
 絵:やなせ たかし 文:晴佐久 昌英 曲:塩田 泉 
 大型本(絵本) 
 出版社 : 女子パウロ会(1989/9) / 初版発行 : 1989年9月20日 

 

連載コラム:「美味しいパスタスープの作り方」

連載コラム「スローガンの実現に向かって」第34回
「美味しいパスタスープの作り方」

桜ヶ丘地区 奥原 華

 どんな時もどんな所でも、だれかのオアシスであること・・・そんなことがすべての人の現実となって、世界がグンと平和になりますように。

 15年ほど前に小さな巡礼団に参加しました。
 成田を出発し、イタリアへ。ミラノの空港からクロアチアのスプリト空港へ。そこから戦火の傷跡もまだ生々しい旧ユーゴスラビア (ユーゴスラビア紛争:1991〜2001の間に旧ユーゴスラビアで民族紛争が起こり、6つの国に分かれる。クロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナは1995年に独立) のいくつかの町や村を通って、延々とバスに乗り、ようやく目的地のメジュゴリエに着いたのは、夜中のことでした。それは、ボスニア・ヘルツェゴビナの小さな村で、マリア様のご出現で知られているのです。
くたびれ果てて、口数も減り、やっとの思いで民宿にたどり着いた私たちを、宿屋の主人は人懐っこい笑顔で出迎え、開口一番、こう言ったのです。「勝っちゃってごめんなさい」
 ちょうど当時、サッカーのW杯が開催されていて、初参加の日本がやはり初参加のクロアチアに負けたばかりでした。みんな思わず笑い出し、脳みその緊張が一気にほぐれたように感じました。

 巡礼団は食堂に通されました。そこではちょっとシャイだけど頼もしい女主人がおいしいライ麦パンとスープを私たちのために用意して待っていてくれました。今思うと、とても素朴なパスタスープでした。
 「星」だったか、「アルファベット」だったか、細かいパスタが唯一の具材で、ごく普通のコンソメスープだったと思います。それでも、とてつもなく美味しいパスタスープで、あれから幾度かあの味を再現しようと試みましたが、成功したことがありません。
 ちょうどそのころのメジュゴリエは、若者の集いが催されていて、世界中のありとあらゆる国からやってきた若者たちの熱気であふれかえっていました。
 若者の集いの大会が盛大に開催されたマリア様の祝日の翌日は、ご変容の祝日で、マリア様のご出現の丘に夜中から登り、朝日を眺めるのが、メジュゴリエの恒例行事となっています。
 私たちも登りました。すがすがしい朝でした。メジュゴリエ全体がオアシスみたいなところでしたが、あの宿屋の主たちはオアシスを見事につくり、美味しいスープで私たちをもてなし、私たちは疲れもなんのその、世界中から来ていた大勢の若者たちとともに丘に登り、歩き回り、ミサに与り、讃美歌を歌い、平和のうちにメジュゴリエで過ごすことができました。

 最近、少しわかりました。美味しいパスタスープの作り方は、まずはオアシスをつくること。
 あのとき食べたスープは疲れた人を癒す、まさしく荒れ野のオアシスのスープだったのです。
 あれから洗礼の恵みも授かり、現在、多摩教会で「カフェ・オアシス」という、教会にいらした人にコーヒーをサービスするグループにも参加しています。ひたすら美味しいコーヒーを提供できるように、文字通り、オアシスであることを心がけたいものです。まずは身近なところから。

投稿記事:「どうぞおはいりください」(おやつの会)

「どうぞおはいりください」
-お茶もお菓子もございます。お代はいただきません。-

関戸・一ノ宮地区 尾崎 ナオ

 「泣いた赤鬼」という童話をご存知ですか?
 村はずれに住む心優しい赤鬼は、鬼であるばかりに疎外され孤立していました。ムラビトたちと仲良くなりたくて、「おやつの会」という立て看板を出して、無料カフェを始めました。けれども、「行ったら最後、捕って食われる」と恐れられれただけで、ムラビトとの距離は開くばかりでした。
 山向こうに住んでいる青鬼は、赤鬼のムラビトに対する幻想を危惧しながらも、傷つき弱り果てた赤鬼のために一肌脱ぎます。「いい赤鬼」が「わるい青鬼」を退治するドタバタ芝居をプロデュースし、体を張って演じきります。赤鬼は、青鬼の目論見どおりムラビトたちのヒーローになります。

 「わるい青鬼」は棲家に居続けることはできません。芝居を打つことにしたときから決めていたとおり、赤鬼の望む幸せのために静かに消えます。
 一方赤鬼はムラビトにとって仲間ではなく、あくまでもまれびとなのでした。そのことを思い知ったとき、赤鬼は青鬼を山向こうに訪ねます。そこには青鬼からの思いやりあふれる手紙が残されていました。赤鬼は青鬼の無償の愛を知り、青鬼の友情を粗末にしたことに気づき、永遠に失った一番大切な友人との時間を悼みます。

 赤鬼も、2匹集まればムラを作り、3匹寄れば派閥を作る習性は、ムラビトと同じ。でもなぜか、鬼はムラビトよりも一人ぼっちが似合っています。
 青鬼は今日も旅しているかしら。雨に降られたら雨宿りしていってくれるかしら。
 赤鬼は今日もひとりお茶をしているかしら。お散歩ついでに、ふらりと多摩教会のおやつの会を覗いてくれるかしら。


※ 「おやつの会」
 毎週木曜日の午後3時から、信徒会館1階で開かれる、気軽な集い。お茶やおやつを囲んでおしゃべりを楽しみます。少しですが、詳しくは、→ こちらをご覧ください。

初金家族の会 10月例会報告

「初金家族の会」10月例会報告


広報: 志賀 晴児

 10月の例会は、14日、聖フランシスコの記念日でした。貧しさを選び、神様の愛と慈しみを全ての人にと説いた聖フランシスコの精神を学びたいと願いながら、初金のごミサに(あずか)りました。ごミサで晴佐久神父様は「フランシスコ教皇様の意向のためにも心をあわせてお祈りしましょう。意向のためにとは、《心をあわせて一緒にお祈りするという、祈りでのつながり、結びつき》を意味するのです」と説明され、この日に相応しいお説教でした。

 ごミサのあと、40人ほどの方が信徒会館に集まり、今回は11月のカトリック死者の月を前に、典礼、広報、霊園担当役員で前の委員長、竹内秀弥さんの教会葬儀とカトリック霊園についての卓話に耳を傾けました。葬儀、お墓のことは、いつの時代でも、どなたにとっても大きな関心事です。イエス・キリストの復活を信じるカトリック信者には、死は永遠の命への門出であり、約束された希望によって悲しみの中にも安らぎを覚える祈りのひとときですが、初めて教会の葬儀に参列された多くの方々にも、しばしば大きな感銘を与えています。卓話では葬儀の手順、慣例など具体的な説明をはじめ、五日市の教会霊園への毎年の共同墓参会のことなど多岐にわたるお話を伺い、出席者からの質問も相次ぎました。

 次回は11月1日(金)に開かれ、「介護について」を予定しています。人それぞれ何時かは、介護するか、介護されるかに直面します。経験者のお話を聞きながら話し合いできればと思っています。


11月の「初金家族の会」は、11月第一金曜日、1日の午前10時のミサ後、11時頃から、信徒会館1階で行われます。

皆さまのご参加をお待ちしております!!

 

巻頭言:主任司祭 晴佐久昌英「岩 波 ホール」

岩 波 ホール

主任司祭 晴佐久 昌英

 岩波ホール。
 その名を聞いただけで、ある特別な感情が沸き起こってきます。ときめき、感謝、そして、敬意。およそ200席の、こじんまりとしたこの映画ホールで、私たちはどれだけ感動し、学ばされ、そして生きる力をもらったことか。靖国通り、神保町交差点角に立つ岩波神保町ビル10階は、映画ファンにとってはもはや、聖地にほかなりません。

 この聖地で最初に観た映画は、宮城まり子監督の「ねむの木の詩がきこえる」という、セミドキュメンタリー作品。1977年夏、ぼくが二十歳の時です。自閉症児の「やっちゃん」と、ねむの木学園の創始者である宮城まり子さんの交流に、心ふるえる感動を覚えました。人と人がつながること、それ以上に貴いことはなく、それこそがキリスト教のすべてだと直感した瞬間であり、自分自身の司祭召命においても大きな影響を受けた映画です。
 そして、何と言っても1979年の「木靴の樹」。エルマンノ・オルミ監督珠玉の名作であり、カンヌ国際映画祭のグランプリ受賞作品です。この映画からは、感動を超えた、聖霊体験ともいうべき影響を受けました。イタリア北部ロンバルディア地方の農夫たちの日常を淡々と描いたドキュメンタリータッチの作品ですが、そこには、目には見えない神のみ心と人間の信仰が、目に見えるごく普通の生活として、奇跡のごとく映っていたのです。素人だけを使った素朴な情景を、自然光だけで撮ったフィルムはあまりにも気高く、ああ、映画の本質は秘跡体験なんだ! と知ったのでした。
 その翌年神学校に入ってからは、なかなか映画も観に行けなくなりましたが、司祭になってからは堰を切ったように聖地巡礼を再開したものです。「TOMORROW/明日」、「八月の鯨」、「サラーム・ボンベイ!」、「コルチャック先生」、「ミシシッピー・マサラ」、「ジャック・ドゥミの少年期」、「森の中の淑女たち」、「山の郵便配達」、ケン・ローチの「大地と自由」、アンジェイ・ワイダの「聖週間」・・・ああ、書ききれない! なんというラインナップ、なんという幸福! 映画評論などを手掛けていたせいもあり、このころは年間100本は見ていましたが、ぼくにとっては、岩波ホールにかかる映画は、特別でした。

 岩波ホールは知る人ぞ知る「ミニシアター」の先駆けであり、日本で初めて定員制・完全入れ替え制を導入したホールです。予告篇のときに企業コマーシャルを流さないとか、一度公開日程を決めたらどんなに客が入らなくとも決して途中打ち切りをしないとか、ともかく映画を愛し、映画を愛する人を愛するという姿勢を徹底して打ち出した、まさに「ほんもの」を感じさせるホールなのです。
 上映される機会の少ない作品をていねいに選び、アジア・アフリカ・中南米の名作に目配りし、女性監督の作品も積極的に紹介することなども岩波ホールの特徴ですが、それらはすべて、創立以来の総支配人を務めてきた高野悦子さんの功績です。残念ながら高野さんは今年の早春亡くなりました。生前、ていねいなお手紙までいただいたことがあります。高野さん、「ある老女の物語」をかけてくれてありがとう! 東京国際映画祭で観て以来、いつかかるかと心待ちにしていたのに、何年たってもどこもかけてくれなかったのを、5年後についに公開してくれたのは、やっぱり岩波ホールでした。

 このたびその岩波ホールから、「木靴の樹」のエルマンノ・オルミ監督の最新作「楽園からの旅人」上映後のトークショーに招かれて、観客の皆さんにお話しできたことが、ぼくにとってどれほどうれしく、誇らしいことであったか、ご理解いただけると思います。
 高野さんの後に支配人を引き継いだのは、岩波ホール前社長の長女、岩波律子さんですが、トークショー当日、岩波さんにお会いしたときに、真っ先にひとこと、申しあげました。「これは恩返しです」、と。
 実際、この日は期間中最高の入りになったことも恩返しでしたし、詰めかけた皆さんに福音を語ることができたことも、何よりの恩返しでした。客席には若い観客もいましたが、あれはかつてのぼくだと思いつつ、心こめてお話ししたのでした。

 「楽園からの旅人」10月4日金曜日まで。岩波ホールにて上映中です。


※:『楽園からの旅人』
 ・ 『楽園からの旅人』公式サイト : http://www.alcine-terran.com/rakuen/